02/10/200:『Blues For Yolande』
「テキサス辺りにならまだカウボーイが残っているはずだよな。」
と、喫煙所で急に言い出した。それまでどんな話をしていたのか忘れてしまうくらい、唐突に。
「どうしたの。」
と、僕はむせそうになったのを堪えて聞き返す。
「いる気がしないか?馬に乗って、ハット被ってさ。パリッとしたブーツに汗の染み込んだリーバイス履いてるんだ。」
乾いた荒野を馬に乗り疾走する男たち。
「いるだろうね。」
と、僕は答えた。適当に、じゃなくて本気で。だって、そうじゃないか。
広大な農地を駆け回る彼らはきっと、ピストルを打ち鳴らすことはもうしないだろうけど、何百年も前から軸をそのままに生活しているはずだ。
同じようなことを、スコットランドの羊飼いやアルゼンチンのガウチョたちも貫いている、というのを本で読んだことがある。
「でもさ、日本にはないよな。」
「どういうこと?侍、ということ?」
「うん。」
侍と一口に言っても、専業の人もいれば兼業だった人もいるだろう。そもそも、カウボーイと羊飼いとガウチョと、侍を同列に並べていいものかどうか、僕にはわからなかった。
「そういう細かいことはいいんだよ。ただ、そうやって受け継がれていくはずだったものが、忽然と、あるいは段々と消えていくことに俺は警鐘を鳴らしているんだ。都合のいい時ばっかり、侍だ、魂だ、とか言ってさ。」
そして、こういう考え方のことを右寄りだとか保守派だとかって糾弾する人もいる。つくづく思う、なんだそれは。
「だから、結局は何が言いたいんだい?」
と、僕は改めて聞いた。喫煙所には僕ら二人しかいなくて、だから心置きなく大きな声でディスカッションを続けることができた。
「俺、就活やめてカウボーイになるわ。」
何言ってんだ、こいつ。と思った。
「それは、現実逃避、と言うんじゃないか。」
僕がそう伝えると、
「だよなー。結局そうだよなー。」
と、楽しそうに頭を抱えて嘆いた。
喫煙所に僕らしかいないのは当然で、なぜなら今日は土曜日で、そして講堂では就職セミナーをしているからだった。
そして僕らはこうして、荒野に出てタバコを吸っていたというわけだ。
・・・
満員電車に吐き気がしたり、謎の業務に振り回されたり、意味のない残業に縛られたり、世のサラリーマンは本当に大変なんだなぁと思う。ターミナル駅を少し上から見下ろす喫茶店からは、そんな風にして働いている人たちが炭酸の泡のように現れてはどこかへと弾けて消えていくのが見えた。
「カウボーイたちも、こうして何か鬱憤を抱えながら生きていると思うか?」
彼がしてきた質問を思い出した。
彼らにとって、サラリーマンの残業に当たるものはなんだろう。付き合いの宴会とはなんだろう。
働く人は皆、平等に大変なんです。
小学生でもわかるようなことなのに、いざ自分がその立場になってみると何もかもがわからなくなってきた。
「そういうことをさ、考え出したらキリないんだよ。だから考えないようにしないと。社会ってそういうもんだぜ?」
OB訪問とやらで時間を作ってくれた先輩は居酒屋でこう言っていた。去年まで一緒になって裸で暴れまわっていた姿はもうそこにはなく、きちんとした、成人男性になっていた。
「もう指だってプニプニだよ。あのリフももう弾けないと思う。」
そうやってハイボールを飲み続けた。
きっと今、目の前の景色の中にその先輩がいても僕は見つけ出すことはできないだろう。
きちんとした、ということは、それだけ溶け込んでいくということなんだ。
「じゃさ、荒野に溶け込んでいるカウボーイたちは?彼らは、どうだ?死んだ目をしているか?そうじゃないだろう。なんでだよ。なんで、俺らだけがこうやって、釣り上げられた魚みたいに生臭く腐っていくんだよ。」
だけど、この人の流れに溶け込んでいくことと、荒野の中に溶け込んでいくことの違いは何なんだろう。
何度も電車が到着しそして出発していく駅では、誰がいつからそこにいるのかも分からないほどに、流れが大きくなっていく。
僕はそれを見ている。
もちろん、その中の一部として。
・・・
日が沈む荒野を馬たちが駆け抜けて、金色に輝く麦畑が風になびく。
跳ね上げる後ろ足と刻み込む前足は、自分の足で走るよりも僕であるかのように、土を噛み、空気を切る。
胸をはだけたシャツに風が入り込んできて、同じ力で負けじと押し返した時、
「だから言っただろう。どこまでも走っていけるって。』
と、誰かが僕に言った。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Coleman Hawkins & Ben Websterで『Blues For Yolande』