01/10/2020:『Lilies Of The Nile』
砂漠の夜は冷えるから、と昔の本で読んだことがあったけど、ここまで寒くなるとは思っていなかった。太陽が砂丘の向こう側に沈み、空の青が深く暗く鉄みたいな色になってから、砂は雪のように冷たく、岬の北風のように僕を包む。
僕は一緒に来た馬と立ち止まった。
「寒いな。この辺で今日は休もうか。」
と、馬の顔を撫でながら言った。真っ黒な瞳に長い睫毛。物言わずとも、同意してくれているのがわかる。
それでもさすがに吹きっ晒しの場所では休めないから、少しだけ歩いてちょうど風を遮ってくれる大きな岩が転がっているその裏っ側に腰を落ち着けた。大きなお尻の上に乗せてくれていた荷物を解いてバサッと下におろす。昼間には舞い上がった砂埃は、気温が下がり湿度を含んだ砂の上では微塵も感じられない。
集めの麻布を広げ持って来たものを配置する。毛布、干し肉、ヤカン、水、ナイフ、ライ麦パン、ウィスキー。
馬の分の食料はお尻の反対側に乗せてあるズタ袋に入れてある。ついでに下ろして、洗面器に注いだ水と麻布の端っこに持ってあげた。
「さて、ご飯食べよう。」
そんなに風が吹いているとは感じなかったけど、ライターの火はなかなか点いてくれない。手で囲むようにしてようやくポータブルコンロに着火した。
お湯を沸かす間、僕はぎちぎちに結んだブーツの紐を緩める。厚手の靴下の中で凝り固まった足を指先までしっかりと揉み解すと、
「ふぅ。」
と、息を吐いた。
なぜこんな砂漠を歩いているのかを、今日だって一日中考えていたことを、もう一度思い出す。
ふつふつと、お湯が沸き始めた。
・・・
聞いた事もない名前の都市たちをいくつもバスを乗り継ぎやってきた町は、赤茶の土と白い石壁がその全てだった。
「ん?あぁ、あの日本人か?少し前に出て行ったぞ。今頃西の砂漠の中さ。」
「ねぇ、私はアイツに一つ貸しがあるのよ。見つけてここへ連れ戻してきて。」
「そういえば、いつも写真を持ってたな。なんか、探し物をしてるとか。」
町中の人に彼のことを尋ねた。小さい町に東洋人はとても目立つ。いい意味か悪い意味かは知らない。ただ、そこにとって異質だから。
小さなカフェに入った。あまりの異国情緒に戸惑ってばかりだったところに、西洋風の店構えが安心感を与えてくれた。
「お前、アイツの友人か?」
短髪はすっかり白く染まり、広い肩幅が元軍人だということに説得力を加えていた。彼の力では容易にひねりつぶせるだろうデミタスカップをテーブルに持って来てくれた時だった。
「これを預かってる。君がきっと来るだろうからって。」
つくづく身勝手な奴だと思う。どうして人はこうして互いに寄り添いながらでしか生きていけないのだろう。だって、そうだからこそ寄りかかる人はずっと寄りかかったままだし、寄りかかられる側の人間はずっと寄りかかられたままだ。
渡されたのは分厚い封筒で、麻紐でぐるぐると縛られていた。
「彼は砂漠を渡っている。西へ向けて。君にきっと追って来て欲しいんだよ。」
こうなるとは思わなかったけど、でもこうなるような気もしていた。
「馬は裏に用意してある。優しい性格だから君ならきっと大丈夫。できれば早めに出発したほうがいいが、今日着いたばかりなんだろ?一晩ゆっくりして、明日の午後に出ることにしよう。必要なものは準備しとく。」
そう言うと、カウンターの奥へと戻って言った。
僕は手に持った封筒をなんとなく裏返したり摩ってみたりしながら濃いコーヒーをゆっくりと飲んだ。
外には影まで焼いてしまうような強い日差しが降り注いでいた。
・・・
干し肉とライ麦パンはどちらもまぁまぁ硬いから、たくさん噛んで飲み込む分、少しの量だけで充分だった。
いつの間にか馬は僕を守るようにして横たわっていた。美しい毛並みがランプの明かりに揺れる。
ウィスキーはアイルランド産だった。まったりとした甘い口当たりが僕の体を弛緩させた。お湯で割って飲むと余計にそう感じる。
「さて、ここは一体どこなんだろう。」
広げた地図をランプにかざして見る。カフェのマスターによると、均一に見える砂漠でも実際に歩いて見ると目印となるものはハッキリと分かるらしく、それが自然の作り出すものだったり、あるいは何百年と旅人たちに受け継がれて来た人工的なメッセージだったりもする。実際に今僕が背にしているこの岩にも、赤、青、緑、白と縦に色が塗れれていた。きっと、どの時間帯でも見失わないような工夫だ。
「とすると、この辺ってことか。」
僕はマーカーで現在位置に印を付けた。四色石、と地図には書かれている。他にも、一本椰子、鳥の墓場、川跡なんかを通って来た。
でも、彼が向かおうとしているところがどこかはまだわからない。でも、この砂漠を進むルートはただ一つで、だから彼の最終目的(地)がわからなくても僕は後ろを追っていくことができる。
「ま、今日はこんなところでいいか。」
僕は地図を折り畳んでカバンにしまった。その他に広げたものもしっかりと片付ける。寝ている間風で飛ばされたり、砂だらけになられては今後が厳しいから。
ランプを消す。一瞬の真っ暗闇の後、目が慣れてくると今度はその明るさに驚く。星の仕業だった。満天の、100万ドルの、というような表現を世界中の言語から集めてきて凝縮したような星空だった。流れ星は庭を横切る小鳥たちのように飛び交っている。
昔の旅人たちはこの星を目印に旅を続けた。名もなき砂漠で迷わないように。
でも、僕は思った。
これだけあったらむしろこの星の中で迷ってしまうんじゃないか。
毛布を被る。鼻のところまで覆って、ずっと夜空を見上げる。風の音に混じってわずかに砂たちの動く音も聞こえてくる。
星の間を進む旅人たちは、暗い砂漠に包まれていく。
それは僕も同じで、だってどこへ向かっているのかも分からないままだ。
目を閉じる。明日も旅は続く。僕の相棒はもうスヤスヤと寝息を立てている。時折尻尾を振り動かしている。
閉じた目の瞼の向こうにも星空が広がっているのがわかった。
彼が僕に預けた封筒は明日、また見てみようと思う。
今日はもうこのまま休むことにした。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
The Crusadersで『Lilies Of The Nile』。