09/09/2020:『For What It's Worth』
介護実習が一週間朝から夕方まであるからと言って、彼は僕の家に転がり込んできた。僕は実家を離れ一人暮らしをしているがー毎回飛行機で帰省するほど実家は遠いー、一方彼はいわゆる地元組というやつで大学には電車で通って来ていた。しかし、教職課程で必須の介護実習は、大学が勝手に配置人数を振り分けるため、自動的に学校の近くに行かされることになる。その老人ホームは僕の家から行けば自転車で15分とかからないようだが、彼の実家からは2時間もかかってしまう。今日から彼は僕の短い同居人となった。
「というか、今までそんなにかけて通ってたの。」
と、僕は聞いた。だって彼はいつも平気な顔で大学にいて、そして平然と帰宅していたから。
「そやねん。だから飲み会も中々参加せんかってんよ。帰りがしんどいから。」
と、彼は答えた。僕のスウェットは彼にもピッタリだ。コタツに入って鍋をつついていた。一週間分の荷物が入ったスポーツバッグが適当なスペースに投げられていて、几帳面な彼は小分けにした袋にそれぞれ、下着、シャツ、洗面用具などをしまっていた。
「あ、これ、オカンから。いつもありがとうって。」
と、言うと、ブロック塀くらいのタッパーを渡して来た。ずっしりと重いその中身は、ぎっしり詰まったおはぎだった。
「こんなにどうするんだよ。」
僕は思わず困惑したが、そこには少し照れが入っていたかもしれない。手榴弾のような黒い塊をしばらく見つめた。
「ってか、こっちのおはぎってこんな感じなんだ。」
実家の祖母が作るものと、つまりは僕の記憶にあるものと色や形が違う気がしたからだ。
「うん、こっち風。せっかくやしね。」
と、彼は言った。僕はお礼を言うとコタツを出て、冷蔵庫を開けた。なんとかスペースを見つけてそこへ入れた。
ついでにビール2本出して、一本を彼に差し出すと、
「ありがとう。で、最近はどうなん。」
と、彼が訊いてきた。筋肉芸人みたいに短く刈った黒髪、笑うと大きく開く口は嘘のつけない彼の優しさを十分に教えてくれていた。
「そうだなぁ。」
僕は少し間をおいて、ビールを一口飲んだ。
白く光る蛍光灯に向かって鍋の湯気が登っていくと、モワモワと四方へと分けれていくのが見えた。
・・・
彼は朝早く起きて、
「じゃ、行ってくるわ。」
と、小さな声で言うと6畳半のマンションを出発した。鉄の扉がガッタンと鳴って、少しすると自転車を出すジャガジャガと言う音が聞こえて、そしてそのまま遠ざかって行った。
テーブルの上には置き手紙があって、
「いってくるわ。鍋は洗っておいたで。」
と、書かれていた。彼なりの誠意なんだろう。僕は3限目からしか授業がなったので、もう一眠りしようと思って、布団を被り直した。
・・・
「ですので、こうして1492年には半島の再征服も完了し、いよいよ本格的な王政再開ならびに新世界への進出が始まったわけです。後期の課題は、次回以降の植民地征服とそれに関わる分野がテーマになるので、できるだけ出席するように。あと課題図書も読んでおいてください。むしろ、あれ全部頭に入っていればもう講義出なくていいかも。」
中教室には7割くらいの学生が入っていて、後ろの席では居眠りをしたり他のことをしたりしている学生が目立った。今この世界に誕生したかのような爆発ヘアーのまま出席している運動部の人や、明らかに夜の仕事の片手間で学生をしているであろう風貌の女子なんかだ。
僕は例の課題図書もすでに読み終えていたので、特に緊張も怠惰もなく、リラックスして授業を受けながら、知識の再整地といった感じで座っていた。中庭に面した教室の窓からは、バスケに薨じる学生や、笑いながら歩く楽しそうなグループが見えた。
「それと、学生番号083111の人は後で私の研究室に来るように。」
僕の番号だった。何かしでかしたのだろうか。
「ねー、何呼ばれてんのよ。」
教室を出ると、声をかけられた。一回生の頃から何度か授業が被っていたヤツだ。付かず離れず、僕らは気持ちのいい距離でいた。
「なんでだろ。取り敢えず行ってみるさ。」
と、言い返した。
「はいよー。ってか今週あいつ泊まってるんでしょ?ホント仲良しだよね。帰ったら教えて、今度は私の番だから。」
「はいはい、わかってます。今日は?バイト?」
「ううん、バンド練習。じゃねー。」
適当に階段の前で別れると、僕はエレベーターに乗って研究棟へと向かった。
・・・
学生がいない最上階。リノリウムの床には僕の足音だけが響いている。
一つ角を曲がったところにある教授の部屋には電気が付いていた。軽くノックをすると、オフィスチェアーにもたれたままこちらを振り返って、
「はいはい、どうぞ、入っていいわよ。」
と、手招きした。
「失礼します」と言いながら入る。書棚が天井までいっぱいになっているのだが、所々可愛い小物や絵葉書なんかも一緒に陳列されていて、圧迫感が少ない。きっと先生自身も優しい人間なんじゃないか。
「どうぞ座って、あ、コーヒー飲む?クッキーもあるの。」
と、立ち上がったので、
「あ、いえ、お構いなく。というか、僕がやります。」
と、僕も腰を上げた。
わちゃわちゃと二人で整えると、改めて椅子に座った。コーヒーの香りが部屋を包む。
「ごめんなさいね、急に呼び出してしまって。先週のレポートのことなんだけど、」
と、先生は切り出した。
「よく書けていたわ。どうしてあんな風に書けたのか知りたくて。剽窃を疑ってるわけじゃないのよ、ただ純粋に。」
「昔、親の仕事の関係で向こうに住んでいたんです。だから、その、現地の学校で習ったことや、あとは僕が暮らしている中で感じたことなかも織り交ぜて書いただけなんです。」
と、答えた。僕にとってあの課題は苦痛を感じるものではなく、当時の生活なんかを振り返るいい機会だと思ってリラックスした書いたつもりだった。
「そう、そういうことなの。素晴らしいわ。じゃ、言葉も問題なしってことか。それで?卒業したらどうするの?その感じ見てると、就職活動してないでしょ。」
僕は黙り込んだ。地元から出てきて3年半。思えば何かに打ち込むこともなく、情熱を燃やすこともなく時間はこんなところまで過ぎていた。だけど、いよいよ舵を定める時期に来ていたのだ。
「向こうに渡る気はない?」
と、先生は言った。具合的に、先生の用事というのは、自身が博論を出した大学に留学してみてはどうか、という内容の提案だった。留学生センターで日本語でも教えながらだったら生きていけるわよ、とも言った。
「ありがとうございます。考えてみます。」
と、言ってそのまましばらく世間話をした後、僕は研究室を出た。
相変わらず研究棟の廊下は静かで、だけどさっきよりも足跡が大きくはっきりと聞こえた気がした。
・・・
家に帰るともう夕方で、彼は介護実習からすでに帰宅していた。今日はどうだったかと尋ねてみると、
「ん、そうやなぁ。「もし、今なら分かることを、あの時に知れていたら。」って感じやな。」
と、格言めいた答えが返って来た。彼はおはぎをモグモグしていた。
「どうした、なんか悟ったの?」
そう聞きながら僕はお茶を入れるためにお湯を沸かし始めた。すると彼もタバコを吸いにキッチンの換気扇下まで来た。
「そう言われたんよ。今日担当したおばあちゃんに。」
と、言いながら火をつけた。一本勧めてくれたので、僕も久々に吸うことにした。
彼が言われたその尻切れトンボのような言葉について、黙ったまま考えていた。後悔なのか、懺悔なのか。述語が一つ抜けたようなその文章からは如何様にも捉えることができたから、僕らはただその周りをぐるぐると行ったり来たりするしかなかった。
「でも、きっとその「あの時」って今僕たちが生きている、「この時」のことだろうね。」
と、僕は言った。
「うん、せやろなぁ。」
と、彼は答えた。
そしてタバコを吸い終わると、今日の買い出しのために二人一緒に外へと出た。駐輪場から空を見上げると、藍色の夜の部分と赤い昼の部分に挟まれるようにして、薄く長い雲が広がっていた。
自転車に跨ると、取り留めのない話をしながら駅前のスーパーへと向かう。
道中、なんとなく二人ともゆっくりペダルを漕いでいた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Liam Gallagherで『For What It's Worth』。