保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑦
今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。
今回で育児記録は最終話です。息子が大学へ向かうころの話と、今息子に思うこと。そして、子育てを振り返ります。
大学生として、東京へ。
息子もいよいよ、大学生です。
東京の大学を選びました。
何か声を掛けて見送ってやりたかったですが、挨拶どころか空港での見送りさえ出来ませんでした。理由は、その頃ちょうど、私の運営する介護事業所のひとつで、新型コロナウイルスのクラスターが起こってしまったからです。私は濃厚接触者として自宅に帰らないように配慮していました。入学式が目前に迫っている息子には、電話で早急に東京に飛び立つように伝えました。一人でチケットを購入させ、慌ただしく旅立っていきました。
※そのときの様子は、こちらのマガジンにまとめてあります。
なんだか、想像していたよりもあっけない巣立ちでしたが『今の息子なら何があっても大丈夫』といった、安心感がありました。
大学生になってからの親子関係
東京の大学生になった息子ですが、今現在は長期休暇などを利用してこちらに帰ってきてくれます。親と離れて暮らすようになった息子を見ていると『いい意味で変わらず』『いい意味で変化している』と感じます。
変わらない部分は、相変わらずのいい親子関係でいれること。今でも誘えばどこでも着いて来てくれます。先日も帰省時にドライブに誘ったら二つ返事で『いいよ』と。嬉しかったです。
変化した部分は、今まで以上に自分を持って行動していることです。首都圏は、情報量も刺激も地方の何倍も強いことでしょう。地方田舎から急に暮らしの場が移ったことで気持ちが揺らぐことも多いはずです。しかし、息子は周りで流行っているからといって、流されることはなく自分がどう在りたいのかを考えて暮らしています。その姿を、人として立派だと感じます。
子育てを振り返って
最後に、子育てを振り返ります。
経済的に大変だったころ
息子が幼い頃は、事業も傾いていてお金も時間も余裕がなかったです。従業員の方々に給料を払うことで精一杯。私自身は、役員報酬を削り、誰よりも少ない対価で暮らしていた時期もありました。そうした余裕のない暮らしの背景によって、私自身も穏やかではなかったかもしれません。
恥ずかしながら、当時は子どもの服を買うことも大変でした。しかし、立場上は経営者であるために周囲からは『社長の裕福な子』として見られることもあったように思います。息子が裕福に見えていたのは、弟のお陰です。東京で会社を立ち上げた私の弟が、息子の欲しいものにお金を出してくれていました。私は、欲しいものを多く買ってやれる余裕はなかったです。それでも、節約しながらお金の余力を生み出していたのは『息子を楽しませること』に使いたかったからです。息子の喜ぶ顔が見たかったからです。その喜ぶ顔が私の幸せであり、生きる原動力でした。
息子が私の人生の支えだった
これまでも何度かお伝えしていますが、若かりし頃の私は自分中心で生きてきました。他人のために気を配る余力がないから、仕事や暮らしが上手くいかないのは、自分以外のどこかに原因があるのだと思い込んでいました。
ただ、介護事業に出会い人のために生きる喜びを知り、人生が良い方へと大きく動き始めました。ここでいう『人のため』の中には、もちろん息子も入っています。むしろ、息子のために生きたいと懇願した人生でした。
だから、子どもを引き取りました。
だから、両親任せにしなかったです。
後悔したくなくて、全力で子育てと向き合いました。
とはいえ、両親と暮らしていましたし家事全般は私の母親に頼っていました。私が料理をして子どもに食べてもらうこともありましたが、息子のお弁当は、私の母親が高校生活の最後まで作ってくれました。両親には、本当に心から感謝しています。
振り返って言えることなのかもしれませんが、子供が居なかったら今の自分はいなかったように思います。様々なことを頑張れず挫折していたかもしれません。結果として、今の会社さえなかったかもしれません。
親と言うのは子どもにとっては偉大な存在のはずです。とくに男の子にとって、父親は英雄のような影響力もあるのかもしれません。それなのに、私は母親役も兼ねていたため、不甲斐ない一面があったり数々の失敗を重ねたりしたことも多かったことでしょう。そんな私をいつも信じて許してくれた息子に、心から感謝しています。
いつも伝えていますが、私はいつも一番の味方です。
最後に、最高の子育てでした!
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