齋藤憲嗣

内装業から介護事業に業種転換した二代目社長です。ひょんなことから他の2つの介護会社を無償で事業承継して、3社の介護会社の代表をしています。

齋藤憲嗣

内装業から介護事業に業種転換した二代目社長です。ひょんなことから他の2つの介護会社を無償で事業承継して、3社の介護会社の代表をしています。

マガジン

  • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだフットサル

    現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル人生を全8話でお伝えしております。

  • 島根県サッカー協会に携わった20年の歩み【番外編】

    私が島根県サッカー協会に、ボランティアで携わった20年間の記録です。他マガジン「金山友紀選手と歩んだ20年のフットサル」の記録の番外編です。

  • 保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記

    ある日突然に、シングルファザーとなりました。男手ひとつで育てた息子です。紆余曲折在りましたが、立派に育ってくれて、今では大学生として独り暮らししています。父子の記録を綴っています。

  • 私が聖火ランナーになった理由

    東京2020オリンピックにて、聖火リレーランナーとして地元島根県浜田市をはしりました。走った理由は、周りにいる人たちを元気にしたかったからです。応募のきっかけや審査・応募動機の真相や、当日の様子。また、私が持って走ったトーチを1000人以上の方に手にしてもらった話もしています!

  • 事業承継の歩みの記録

    父の創業した齋藤アルケン工業を事業承継してから、事業低迷を受けて介護事業に転身。一時は苦しい時期もありましたが、今では3社の事業承継を受けるまでに発展しました。その歩みを纏めています。

最近の記事

現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑧

サッカー協会の携わるようになり、20年目。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、そして多くの思い出と学びがありました。その記録と気持ちを全8回に渡って綴ってきました。 今回は最終回。島根県サッカー協会に長きに渡って携わってきた私の気持ちを今一度振り返ります。その上で、これからの島根県におけるフットサルについての考えもお伝えします。 これまでを振り返ってみると…自分たちが強くなりたいと思い関りをはじめたサッカー協会の活動でしたが、チームもなくなり、いつしか島根

    • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑦

      サッカー協会の携わるようになり、20年目。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、そして多くの思い出と学びがありました。その記録と気持ちを全8回に渡って綴ってきました。 7回目となる今回は、浜田市出身フットサル日本代表の金山友紀選手に対するお礼を述べると共に、これまでの思い出深いエピソードや今後のことを書き綴っておこうと思います。 キーパーソンだった、金山友紀選手サッカー協会のフットサル委員会に名乗りを挙げ、浜田市でのフットサル普及をしていくこととなった私です

      • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑥

        島根県サッカー協会の携わるようになり、20年目。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、そして多くの思い出と学びがありました。その記録と気持ちを全8回に渡って綴ります。 今回は6回目。今回は、サッカー協会に長きに渡って携わってきた自分自身の気持ちを振り返ります。 島根県サッカー協会に名乗りを挙げたころこれまでのところでお伝えしたように、私は長きに渡って島根県サッカー協会に携わってきました。 自分が所属するフットサルのチームが中国大会で負けたことがキッカケです

        • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑤

          サッカー協会の携わるようになり、20年目。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、そして多くの思い出と学びがありました。その記録と気持ちを全8回に渡って綴ります。 今回は5回目。前回の記事で紹介した金山友紀選手との出会いが、私にとってフットサルとの関りを深める大きなきっかけとなりました。今回は、浜田市でのフットサル普及の思い出話をいくつかしたいと思います。 フットサル教室の運営は大変金山友紀選手の登場によって、小学生を対象としたフットサル教室をスタートさせる一

        • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑧

        • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑦

        • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑥

        • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル⑤

        マガジン

        • 現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだフットサル
          8本
        • 島根県サッカー協会に携わった20年の歩み【番外編】
          0本
        • 保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記
          7本
        • 私が聖火ランナーになった理由
          5本
        • 事業承継の歩みの記録
          5本
        • 介護施設での新型コロナウイルスのクラスターの記録
          6本

        記事

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル④

          島根県サッカー協会に携わるようになり、20年目に突入しました。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、多くの思い出と学びを経験させていただきました。島根県サッカー協会を通じた、これまでの記録と思い出を、ここnoteに全8回に渡って綴ります。 今回は4回目。今回はフットサル日本代表の金山友紀選手と私の出会いの話し。彼なしには、今の島根県と特に浜田市のフットサル普及はなかったとも言えるのではないでしょうか。 フットサル日本代表、金山友紀選手との出会い島根県の浜田市

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル④

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル③

          島根県サッカー協会に携わるようになり、20年目に突入しました。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、多くの思い出と学びを経験させていただきました。島根県サッカー協会を通じた、これまでの記録と思い出を、ここnoteに全8回に渡って綴ります。 3回目となる今回は、日本全体のフットサルや浜田市の地域の中でのフットサルの状況をお伝えします。私の島根県サッカー協会での『今まで』と『これから』を語る上で、簡単にお伝えしていこうと思います。 当時、地域の中でのフットサルは

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル③

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル②

          島根県サッカー協会に携わるようになり、20年目に突入しました。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、多くの思い出と学びを経験させていただきました。島根県サッカー協会を通じた、これまでの記録と思い出を、ここnoteに全8回に渡って綴ります。 2回目となる今回は、島根県サッカー協会との出会いの話しです。 中国大会での敗北が、私にもたらしたもの2003年、第8回全日本フットサル選手権の島根県大会で優勝した私たち。喜んだのも束の間、中国大会初戦にて山口県代表に大敗。

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル②

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル①

          島根県サッカー協会に携わるようになり、20年目に突入しました。 ボランティアとしての関りでしたが、出会いや別れ、多くの思い出と学びを経験させていただきました。島根県サッカー協会を通じた、これまでの記録と思い出を、ここnoteに全8回に渡って綴ります。 初回となる今回は、サッカー協会に出会うまでのキッカケの話しです。 地元への帰省とフットサルチームへの加入私が、社会人としてサッカー(フットサル)に関わり始めたのは、地元浜田市への帰省がキッカケでした。大学卒業後の進路として

          現役最年長Fリーガー金山友紀選手と歩んだ20年間の島根県のフットサル①

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑦

          今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。 今回で育児記録は最終話です。息子が大学へ向かうころの話と、今息子に思うこと。そして、子育てを振り返ります。 大学生として、東京へ。息子もいよいよ、大学生です。 東京の大学を選びました。 何か声を掛けて見送ってやりたかったですが、挨拶どころか空港での見送りさえ出来ませんでした。理由は、その頃ちょうど、私の運営する介護事業所のひとつで、新型コロナウイルスのクラスターが起こって

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑦

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑥

          今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。 今回は、高校1年生の2学期に高校を辞めてからのことを中心にお伝えします。誰かのお役に立てたら幸いです。また、息子にも何か届くものがあれば嬉しいです。 高校を辞めてからの息子のこと前の学校を辞めて、自宅に帰ってきてからの息子は退屈そうでした。中学校時代の友達は、平日昼間は学校に通っています。放課後や休日も、それぞれに部活などがあるため、息子としては疎外感を感じたこともあったか

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑥

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑤

          今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。 今回は、息子が中・高校生の頃の話しです。誰かのお役に立てたら幸いです。また、息子にも何か届くものがあれば嬉しいです。 中学生のころ想定した思春期ではなかった 中学生になって、急に成長したように感じました。見た目はもちろんのことですが、お洒落に身が入るようになりいい意味で年頃になったと感じました。また、小学生の間は毎朝抱きしめていましたが、いくらなんでも中学生が近づくとそれ

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記⑤

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記④

          今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。 今回は、息子の小学校時代の育児を振り返ります。前回の記事で、小学校期間の育児と向き合うために学校区を変えた話もしました。小学校6年間通った結果として、その選択は間違ってはいませんでした。しかし、息子が小学校に上がったころはシングルファザーであることが嫌で仕方なかったです。いくつかのエピソードを振り返ります。 小学校の入学式小学校の入学式は、本当に嫌だなと感じました。 この

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記④

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記③

          今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。 今回は、ひとり親になったばかりのころのこと。息子が小学校に就学するにあたっての逸話です。誰かのお役に立てたら幸いです。また、息子にも何か届くものがあれば嬉しいです。 入学説明会で不安になる息子はこれまで通っていた保育園とは異なる校区の小学校に通うことになりました。それは、保育園時代の友達が誰一人いなくなるということを意味します。これは、私の一存で決めたことです。傍からみると

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記③

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記②

          今現在、シングルファザーとして育てた『息子とのこれまで』について、全7回に渡ってお伝えしています。 今回は、ひとり親になったばかりのころ。息子が幼少期のころの話しです。誰かのお役に立てたら幸いです。また、息子にも何か届くものがあれば嬉しいです。 幼少期の息子のこと親になると、どうしても我が子の『いいところ探し』をしてしまう方って多いのではないでしょうか。私も、その中の一人でした。 私は『息子の敏感さ』に注目していました。子どもが敏感と言うと、ネガティブな意味で捉えられる

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記②

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記①

          2022年の春、息子が大学進学のために上京しました。 『男手ひとつ』だったために、子育て期間中は不安や葛藤の連続でした。それでも、我が子は立派に育ってくれました。もっというと、今の息子ならどこへ行っても大丈夫だと信じることが出来ています。 これから全7回に渡り、シングルファザーとして育てた『ひとり息子の子育て』についてお伝えします。 育児は正解がないことなので、人の数だけの子育ての轍があることでしょう。そんな中で、私の育児経験談が、誰かのお役に立てたら幸いです。そして、

          保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記①

          1000人以上に聖火トーチを手にしていただいた私が聖火ランナーになった理由⑤

          2021年5月15日『東京2020オリンピック競技大会』の聖火リレーランナーとして地元島根県浜田市を走りました。 聖火リレー終了後、私が手に持って走ったトーチと共に浜田市内を巡り延べ1000人以上に手に持っていただきました。多くの方に笑顔になっていただいたことで、他の誰よりも私自身が心から嬉しいと感じました。 トーチを購入した理由は『みんなに笑顔になってもらうため』オリンピック大会組織委員会から購入したトーチ。購入しないという選択もありましたが、購入に至った表向きの理由は

          1000人以上に聖火トーチを手にしていただいた私が聖火ランナーになった理由⑤