保育園年長から大学進学までの13年間の子育て奮闘記①
2022年の春、息子が大学進学のために上京しました。
『男手ひとつ』だったために、子育て期間中は不安や葛藤の連続でした。それでも、我が子は立派に育ってくれました。もっというと、今の息子ならどこへ行っても大丈夫だと信じることが出来ています。
これから全7回に渡り、シングルファザーとして育てた『ひとり息子の子育て』についてお伝えします。
育児は正解がないことなので、人の数だけの子育ての轍があることでしょう。そんな中で、私の育児経験談が、誰かのお役に立てたら幸いです。そして、何より息子に届けたいと思います。
息子の誕生について
2003年12月、私にとってのひとり息子が誕生しました。
今となっては、私の人生を語る上で欠かすことの出来ない息子です。しかし、恥ずかしながら、初めて息子と対面したとき父親になった実感が沸かなかったのが本音です。
陣痛がはじまり私も一緒に病院に行きましたが、僅か1時間程度で息子は産まれてきました。陣痛のあいだ、分娩室に入り声掛けもしました。しかし、現代とは事情も異なり立ち合い出産には至りませんでした。息子と初めての対面を遂げたときにも、あまりの小ささにどうしていいのか分からなかったのが正直なところです。
出産後も、実感が沸くまでには時間を要しました。現代では言うまでもなく、産後の母子同室が一般的です。しかし、当時は産後だとしても母子別室がほとんどでした。それもあって、病院へ行っても息子を抱くことは出来なかったです。ガラスの向こうにいる息子をただ眺めるだけの期間が、親としての責任を背負うのに更なる時間をもうけたように思います。
出産退院後、息子は母親と共に元妻の実家へ1か月未満の里帰り帰省をします。里帰り期間としては短かったようにも思いますが、私と息子がひとつ屋根の下で過ごすには若干の時間を要しました。親になったと実感したのは、一緒に暮らし始めてからだったように思います。
父親になっていくということ
私の家に帰ってくるタイミングで、息子は風邪をひいていました。
壊れそうなほど小さな体です。体調を崩す姿を見て、とても不安になりました。聞く所によると赤ちゃんは鼻呼吸しか出来ないとのこと。とりわけ心配性という性分ではありませんが、幼い体で苦しそうに呼吸をする息子が気がかりで、その日は寝ずに看病したのを覚えています。
大人にとっては数日寝ていればよくなる風邪も、抵抗力の弱い新生児にとっては手強かったようです。ほどなくして、息子は風邪が悪化し入院となってしまいました。その様子を目の当たりにする中で『子どもとは、なんて弱い生き物なんだろう』と、感じました。同時に『何としてでも、自分が守り育てなければ』と強く思いました。
入院して集中的に治療したことで、息子は瞬く間に回復し退院となります。しかし、あまりにも心配だったため、息子が元気になったことが心の底から嬉しと感じました。
入院のエピソードは、私が親としての責任を抱えていく過程の一例です。ここから、日増しに『我が子を大切に思う気持ち』が芽生えました。多くの時間を共にすることで、親としての愛情が無限に育まれました。
両親(祖父母)の反応
孫が生まれても『すぐに実感が沸かなかった』のは、私の両親も同じだったのかもしれません。日頃から感情を表に出さない私の両親です。孫の誕生は嬉しいのでしょうけれど、ある日突然に『おじいちゃん・おばあちゃん』と言われても、その喜びをどう表現すればいいのか分からずにいたのでしょう。当時は戸惑っていたように見えました。
とはいえ、2人にとっては初孫です。息子が成長する中で、日を追うごとに愛情が芽生えているのが伝わってきました。私は孫を見せることが、自分にとっての一番の親孝行だと思っていた部分もありました。そうした意味も込めて、息子の存在には当時からとても感謝していました。
乳児期について
この頃、私はまだひとり親ではありませんでした。それもあってか、育児の中心者として積極的に子育てに関わっているというよりは、共同で養育をしているといった感覚だったようにも思います。
それが、離婚を境に一変しました。まさか、自分がシングルファザーになるとは思っても見ませんでした。ひとりで子育てするようになって感じたのは『することの多さ』です。やるべきことが24時間で収まらず、心的にも体的にも困窮します。父子家庭となったことで、嫌と言うほど『みっともない自分』に直面しました。
それでも振り返ってみると、育児は楽しい作業の連続だったような気がします。いえ、育児は最高でした。
ここから、子育てを通し息子から多くのことを学ぶこととなります。次回からは、そんな話しを具体的にしていこうと思います。