自分の企画であったかのような説明 ──井上哲次郎『勅語衍義』を読む(2017年4月17日)
教育勅語渙発後の歴史をひきつづき追いかける。
前回のメルマガ(4月13日号)では、教育勅語の解説本編纂をめぐって、宮内省の『明治天皇紀』と文部省の『学制百年史』では記述の内容が食い違っていると指摘した。
『明治天皇紀』では、勅語発布後、芳川文相は教科書に使用する目的で、帝大教授井上哲次郎に解説本の起草を依頼した。できあがった原稿は文相らの修正を経て、明治天皇がご覧になったが、天皇はなおも修正を求められ、井上毅と相談せよと述べられた。結局、教科書ではなくて私書として出版された、と説明されている。
ところが『学制百年史』では、井上哲次郎の草案について明治天皇が修正を求められたことについて言及がないばかりでなく、解説本が師範学校・中学校の修身教科書として使用された、と正反対の記述をしている。どちらが本当なのか。
ならばということで、井上哲次郎の原文を読んでみることにする。
▽1 帰国したばかりの興奮
戦前、出版され、国会図書館に納められている井上哲次郎の教育勅語関連の図書は約10冊ある。(1)『勅語衍義』井上哲次郎著、明治24.9、(2)『勅語衍義、増訂24版』井上著、明治32.3、(3)『教育勅語述義』井上、藤井健次郎著、明治45.3、(4)『教育勅語衍義、釈明』井上著、昭和17年などである。
このうち(3)以外はデジタル化されており、図書館に行ってマイクロリーダを覗き込まなくても、ネット上で誰でもいつでも閲覧できるようになっている。
(1)と(2)は和装本である。それぞれ上下2冊で、内容もあまり変わらない、
(1)の『勅語衍義上』は41丁、約80ページ。表紙をめくると、まず「文科大学教授井上哲次郎著、文学博士中村正直閲。勅語衍義」と書かれたページがあり、芳川文相の文相が続く。完全な漢文体でとても読み下せない。
続いて、勅語を一句ごとにくわしく解説した本文の前に、井上による前書き(叙文)が10数ページにわたって載っている。原文は漢字片仮名交じりだが、読みやすく適宜編集すると次のようになる。
「勅語衍義叙
庚寅の年(明治23年)、余、欧州より帰り来たり。久しく燦然(さんぜん)たる文物を観たるの眼をもって、たちまち故国の現状を観るに、彼我の軒輊(けんち。優劣)甚だしきを覚え、悽然わが心を傷ましむるもの少なしとせず。ここにおいて百般の感慨、胸中に集まり、わが邦社会上の改良につき、論弁せんと欲するところきわめて多し」
明治17年からドイツに留学し、この年に帰国したばかりの興奮が伝わってくる。このヨーロッパ体験が勅語解説に影響がなかったはずはないものと思う。つまり、徳育という人づくりより欧米諸国に追いつくための国づくりが優先されているのではないかという疑いである。
▽2 文相が委嘱した経緯に言及せず
「ことに教育に関し、わが至仁至慈なる(平出)
天皇陛下、軫念(しんねん)せらるるところありて、勅語を下したまふ。文部大臣承けてこれを全国の学校に頒(わか)ち、もって学生生徒に矜式(きょうしょく。謹んで手本にする)するところを知らしむ。余、謹んでこれを捧読するに、孝悌忠信の徳行を修め、共同愛国の義心を培養せざるべからざるゆえんをもって懇々諭示せられたまふ。その衆庶に裨益(ひえき。役立つ)あることきわめて広大にして、民心を結合するにおいてもっとも適切なり。わが邦人は、今日より以往、永くこれをもって国民的教育の基礎とせざるべからざるなり」
井上はこのあと世界情勢を眺め渡しつつ、勅語をめぐる教育論を延々と展開している。それはそれで興味深いところがないわけではないのだが、要するに、教育勅語渙発の成立過程も『勅語衍義』がたどった経緯もほとんどまったく説明がない。
というより、この文章では、『明治天皇紀』に記されているような、芳川文相が衍義著述発行を企画し、井上に委嘱したという経緯がまったく抜けていて、あたかも自分の企画であるかのような説明になっている。なぜなのか。
▽3 『増訂』の説明も『明治天皇紀』と異なる
8年後に刊行された(2)の『増訂勅語衍義』にはもう少しくわしい説明が見られる。明治24年の旧本とは異なり、芳川文相の叙文のあとに「増訂勅語衍義序」が加えられ、わずか3ページだが、衍義作成の経緯などが説明されている。
けれども、やはり、どういうわけか、『明治天皇紀』とは異なり、もともと井上個人の企画であるかのような説明になっている。
「教育に関する(闕字)勅語は、わが邦における国民教育の大方針にして、下臣民の依るべき綱常(こうじょう。人の守るべき道)の存するところなり。余、竊(ひそか)にその関するところの重かつ大なるものあるを慮り、おのれの不敬を顧みず、あえてこれが衍義を作り、その旨意を拡充せり。しかれどもこと(闕字)勅語に関するをもって、稿本を中村正直、加藤弘之、井上毅、島田重礼などの諸氏に示し、その意見を問ひ、いささかその順正にして瑕疵なからんことを期し、その文義ようやく定まるに及んで、かたじけなくも内大臣を経て、(平出)
天覧に供し、しかしてのちはじめて世に公にするに至れり」
もともと個人企画だが、ほかならぬ勅語に関する解説本なので、関係者に意見を求め、陛下にもご覧いただいて出版の運びとなったというのが、井上哲次郎の説明だが、これは『明治天皇紀』の記述とはまるで異なる。加藤弘之の名前も新たに登場している。旧本と異なり、闕字が多いのも特徴である。8年の間に社会が変わったということか。
ということで、次回は『教育勅語衍義釈明』を読んでみる。謎解きのヒントが見えてくるかも知れない。
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