検証・平成の御代替わり 第4回 ──公式記録『昭和天皇大喪の礼記録』などを読む その1(2011年10月2日)
前号まで3回にわたり、石原信雄内閣官房副長官の著書『官邸2668日──政策決定の舞台裏』(1995年)を材料にして、平成の御代替わりを検証しました。
石原氏の著書は政府の中枢にいた関係者による貴重な証言ですが、石原氏が自賛するように、「一連の御代替わりの行事が、大きなトラブルもなく、新憲法下で、わが国のよき伝統を残し、滞りなく行い得た。今後の先例となったことは非常に意味がある」といえるのかどうか、大いに疑問です。
平成の御代替わりは徹頭徹尾、政教分離問題でしたが、多くの課題を残したのでないかと私は思います。
今日からは、政府・宮内庁の公式記録を読んでみたいと思います。GHQ以上に厳格な政教分離主義が採られた背景に何があるのか、さらに追究したいからです。
▽1 政府がまとめた4冊の公式記録
平成の御代替わりに関する公式記録は4冊あります。内閣総理大臣官房が編集・発行した『昭和天皇大喪の礼記録』『平成即位の礼記録』、および宮内庁がまとめた『昭和天皇大喪儀記録』『平成大礼記録』です。
石原氏は、(1)践祚(せんそ)、(2)御大喪、(3)大嘗祭のそれぞれについて振り返っていましたが、これに(4)即位の礼を加え、4つの場面について、公式記録を読むことにします。
まず、践祚です。石原氏の著書では、「剣と勾玉(まがたま)と御璽(ぎょじ)を引き継ぐ儀式」である剣璽(けんじ)渡御(とぎょ)の儀は、「剣璽等承継の儀」と「名称を今風に改め、きちんと行った」とされています。「新天皇の即位後すぐに総理大臣がご挨拶する儀式」である「朝見の儀」は、「践祚後朝見の儀」から「即位後朝見の儀」と改められましたが、石原氏による理由の説明はありません。
公式記録を見てみます。『昭和天皇大喪の礼記録』(内閣総理大臣官房、平成2年)は、「第1章 序説」に「皇位継承に伴って行われた国の儀式」として、(1)剣璽等承継の儀と(2)即位後朝見の儀、を説明しています。
(1)の儀式は、「皇位を継承された新天皇陛下が即位の証として、『皇位とともに伝わるべき由緒ある物』である剣および璽を承継されると同時に、併せて国事行為の際に使用される御璽および国璽を承継される儀式」で、(2)の儀式は、「天皇陛下が御即位後初めて公式に三権の長を始め国民を代表される人と会われる儀式」で、即位の礼の一環として行われた、とだけ説明しています。
▽2 御結婚の儀は憲法違反だったのか
くわしく記述しているのは、宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)です。
同記録は、旧登極(とうきょく)令によれば、皇位継承に引き続いて、(1)賢所の儀、(2)皇霊殿神殿に奉告の儀、(3)剣璽渡御の儀および、(4)践祚後朝見の儀からなる践祚の式が、国務として行われることになっていたが、現行憲法下で相当する儀式をどう位置づけるかについて検討し、その結果、剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀は国の儀式として行うのが相当かつ適当だが、(1)(2)は政教分離の趣旨に照らして、国の儀式とすることは困難とされた、とごく簡単に解説しています。
宮中三殿で行われる祭儀は、それだけで国の儀式とすることは政教分離原則に違反するという考えなのでしょうか。閣議決定により、「国事」(正確には「国の儀式」。宮内庁は「国事行為」と認識し、マスコミは「国事」と報道した)として賢所大前で行われた、昭和34年の皇太子殿下(今上陛下)の御結婚の儀は、憲法違反だったというのでしょうか。
剣璽等承継の儀に登場する国璽および御璽は、同記録の説明では、旧制の剣璽渡御の儀では、剣璽渡御に従うこととされていたが、今回は、現行憲法上、国事行為に使用される意義にかんがみて、剣璽とともに承継されることとされた、となっています。
名称の変更は、石原氏は「今風に改めた」と説明していましたが、宮内庁の記録では、「皇室の長い伝統に即し、かつ、簡潔であることが望ましいとの観点から」とされています。話が違います。
剣璽は賢所に祀られる神鏡とあわせて三種神器と呼ばれます。その承継の儀式は政教分離の原則に反しないのか、といえば、宮内庁の記録は、剣璽は皇室経済法第7条に定める「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」であって、公的な性格を有する、また、即位の証として承継の儀が行われるのだから、違憲とはならないと説明しています。
けれども前回、ご紹介したように、現行憲法および現行皇室典範などの制定の直接的責任者だったという井出成三・元法制局次長は、「即位その他の式典は皇室の国家的行事であり、皇室の行事である。表裏一体の事実であって、敢えて分離分析して、切り離された2つが並列するものと考えることは理を失する」と指摘し、さらに次のように批判しています(井出「皇位の世襲と宮中祭祀」昭和42年)。
「宮中祭祀は憲法上、いわゆる宗教であり、国費を支出して行い、国家機関たる地位にあるものが参列することは、憲法上問題があるとして、式典を二分して観念し、皇室の儀式は公の機関でない掌典職が執り行い、費用は内廷費で賄い、別途に国の式典を行い、宮中祭祀の色彩を一切除去することが正しいと考え、あるいはその一方を行うほかはないと考えることは、形式的な解釈に引きずられて、本質を見失っているのではないか」
▽3 見落とされている剣璽御動座復活の歴史
即位後朝見の儀は、旧制では践祚後朝見の儀でした。改称の理由について、石原氏の著書には言及がありませんが、宮内庁の『平成大礼記録』は「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯があるので」と説明しています。
けれども、すでに書いたように、もともと践祚とは皇位を継承することを意味します。桓武天皇の時代、践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観(じょうがん)儀式の制定で両者は区別されるようになったといわれます。
ところが、戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこの区別を反映できず(古来の概念では践祚であり、旧皇室典範は「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」だったが、現行皇室典範は「天皇が崩じたるときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定め、践祚と即位の区別を失わせた)、その後、日本政府は正常化を怠り、そして平成の御代替わりは践祚という用語と概念を完全に喪失させてしまったのです。践祚という法律用語を失ったから、というのなら、「皇位継承後朝見の儀」と呼べば、まだしもなのに、です。
朝見の儀における陛下のお言葉は、ことの重要性にかんがみて、内閣の責任を明らかにするため、閣議決定されたと説明されています。宮内庁の記録には言及されていませんが、文体は口語体に改められました。首相の奉答文も同様でした。
すでに書いたように、朝見の儀ではより重大な変更がありました。かつては剣璽の御動座を伴っていたのですが、平成の「即位後朝見の儀」では行われませんでした。
石原氏の著書には言及がありませんが、宮内庁の記録は、剣璽御動座がなかったことの理由を、「昭和21年6月の(昭和天皇の)千葉県下の御巡幸以降、剣璽は御動座しないことが原則になっている」ことなどを勘案したためと説明しています。
けれども昭和21年以来、久しく行われていなかった剣璽御動座は、49年の伊勢神宮行幸に際して、28年ぶりに復活しています。宮内庁が知らないはずはないのに、同庁の記録はこの歴史を見落としています。
朝見の儀が配偶者同伴となったのも新例でした。「今日の一般的慣行に従って」と説明されています。
次回は御大喪について、です。(つづく)
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