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不可解なり‼ 『沖縄県史』は「軍命」説を支持していない。それどころか……(平成19年11月18日日曜日)


 沖縄戦の集団自決について「軍の強制」を削除した教科書検定の撤回を求めて、9月29日、県民大会が開かれました。県議会など22団体で構成される実行委員会(実行委員長は県議会議長)が主催するこの大会で、沖縄県知事は、「沖縄戦の集団自決に日本軍が関与したことは、当時の教育を含む時代状況の総合的な背景や、手榴弾が配られたとの証言から、覆い隠すことのできない事実だ」と挨拶したと伝えられます(9月29日、共同通信)。

 今回の教科書検定は「軍の関与」までは否定していないのですから、知事の訴えはまったくの的外れですが、それはともかくとして、県当局はあげて「軍命」説に固まっているのか、といえば、さにあらず、県が編纂発行した『沖縄県史』を読んでみると、驚いたことに、逆に「軍命」説を疑問視する証言がいくつも掲載されています。

▼1 「軍命」説を明記する『県史8』


 『県史8 各論編7 沖縄戦通史』(琉球政府編集発行、1971年)は、「第7節 スパイ嫌疑と残虐」で、山川泰邦『秘録沖縄戦記』(読売新聞社、昭和44年)をほとんど全面的に引用し、渡嘉敷島では「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」と記述し、座間味島でも、「梅沢少佐はまだアメリカ軍が上陸もしてこないうちに『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子供は全員忠魂碑前で自決せよ』と命令した」と明記しています。


 「赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった」「梅沢少佐からきびしい命令が伝えられた。……『老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった」と自著に書いた山川氏は、那覇警察署長、琉球政府立法員議長などを歴任した人物で、琉球政府の援護事務に携わっていました。各市町村が「援護法」適用の陳情に提出した公的文書に基づいて書かれたのがこの本で、信憑性が高いと評価されていたといわれます(宮城晴美『母が遺したもの』高文研)。


 『県史8』がたびたび山川氏の本を引用しているのはそういった事情があるようで、「軍命」説は行政によってお墨付きを得、ここに確立されたのでしょう。

▼2 不正確な歴史の独り歩き


 「軍命」説の公的認知には、地元新聞が果たした役割も見逃せません。

 沖縄県史編集委員審議会の委員長は、「軍命」説を最初にいいだした沖縄タイムスのトップ・豊平良顕相談役です。「(渡嘉敷で)自決命令が赤松からもたらされた」「(座間味で)軍は住民を集め玉砕を命じた」と、集団自決「軍命」説を最初に活字にしたのは沖縄タイムスの『鉄の暴風』(初版は朝日新聞社発行、1950年)でした。


 しかしこれこそつまずきの始まりでした。

 曾野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(1973年の初版は『ある神話の背景──沖縄・渡嘉敷島の集団自決』)によれば、『鉄の暴風』は体験者の証言をつづったものとはいえ、集団自決については直接の体験談ではない伝聞をまとめたものに過ぎませんでした。敗戦後の混乱期にはその程度の取材がやっとのことだったのですが、不正確な歴史がこのとき独り歩きし始めます。


 そして「軍の強制」は遺族援護のための方便として利用され、定着します。人々の困窮を救う方便のためにつくられた公的文書をもとに、山川氏は歴史を書き、それを引用して公的歴史としての『県史』が記述されたのです。

 「軍強制」説で突き進んできた沖縄タイムスにとっては、いまさら「強制」を否定することは、ジャーナリズムの自己否定であり、食肉偽装や期限切れ食品事件にも匹敵する影響は免れないでしょうから、意固地になるのは理解できないこともありませんが、『県史』の方はすでに方向修正をしています。

▼3 『県史10』は赤松隊長の「集合」命令を記録するのみ


 1972年の沖縄返還後に刊行された『県史10 各論編9 沖縄戦記録2』(沖縄県教育委員会編集発行、1974年)は「軍命」説を否定する証言を載せようになりました。「渡嘉敷村」の項では、「集団自決」について次のように記録しています。

 「(米軍の)上陸に先立ち、赤松隊長は、『住民は西山陣地北方の盆地に集合せよ』と、当時、赴任したばかりの安里喜順巡査を通じて命令した。……西山陣地にたどり着くと、赤松隊長は村民を陣地外に撤去するよう厳命していた。村民を1カ所に集め、さらに陣地外に追いやったこの2つのことは、後の集団自決の動機と微妙に結びついている。……その時、陣地に配備されていた防衛隊員20数人が現れ、手榴弾を配りだした。自決しようというのである。どうして自決するような羽目になったのか、知るものはいないが、誰も命を惜しいとは思っていなかった」

 「座間味村」ではこうです。

 「梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』というものだった。役場の書記がこの命令を各壕を回って伝えた。島の老幼婦女子はその夜、晴れ着を着けて忠魂碑前に赴いた。ところが梅沢部隊長が現場に現れないうちに、敵砲弾が忠魂碑に命中して炸裂した。この衝撃で集まった人々は混乱状態におちいり……」

 『県史10』の本文(大城将保執筆)は、座間味の「玉砕」については「梅沢隊長の軍命」を明記していますが、渡嘉敷については赤松隊長の「集合」命令を記録しているに過ぎません。

▼4 「軍強制」説を疑う生存者たちの証言


 きわめて興味深いのは、「県史10」が本文に続けて掲載している生存者たちの証言です。ここには集団自決に関する「軍の命令」が見当たらないばかりか、「軍強制」説への懐疑が堂々と披瀝されています。

 たとえば、女子青年団の宮城初枝さん(24歳)は、「村当局の命令により防空訓練や防空壕掘りが行われていた」「私たちは村長命令で重要書類を忠魂碑前に運ぶことになっていた」「私たち5人は弾丸運びが命令されました」と「命令」が列記されているのに、「自決」が命令されたとは書かれていません。

 集団自決で亡くなった人たちが援護法の適用で補償を受けるには、その死が軍部と関わったものでなければなりません。宮城晴美『母が遺したもの』によれば、昭和32年、厚生省の調査で、「住民は隊長命令で自決をしたといっているが、そうか?」という質問に対し、「ハイ」と答えたのが宮城さんの母・初枝さんでした。島の長老から「隊長から自決命令があったことを証言するように」といわれ、断り切れずに応じたのです。

 初枝さんの証言は島に干天の慈雨をもたらしたのでしょうが、自身は苦悩を抱え込むことになりました。「命令は隊長ではなかった。でもどうしても隊長の命令だと書かなければならなかった」と語り出したのは、昭和52年3月、集団自決した人たちの33回忌でした。

 そして『県史10』に掲載された初枝さんの証言には、「隊長の命令」は載らなかったのです。

 宮城初枝さんだけではありません。渡嘉敷の郵便局長だった徳平秀雄さんは、「(集団自決した)防衛隊とはいっても、支那事変の経験者ですから、進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員はもってきた手榴弾を配り始めていました。……私には誰かがどこかで操作して、村民をそういう心理状態にもっていったとは考えられませんでした」と書いています。

 渡嘉敷村長だった米田惟好さんの証言は、「赤松」に批判的ですが、それでも集団自決が「赤松の命令」とはされていません。さらに赤松隊長の副官・知念朝睦さんは、「私は赤松の側近の1人ですから、赤松隊長から私を素通りしてはいかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません」と証言しています。

▼5 県の資料集に載った元隊長の「戦闘記録」


 それから10年あまりのち、「沖縄資料編集所紀要11」(沖縄県沖縄資料編集所編集発行、1986年)に、大江・岩波訴訟の原告である梅沢元隊長の、軍命説をみずから否定する「隊長日記」が載りました。


 その冒頭には、手記掲載までの経緯が解説されています。筆者はほかならぬ『県史10』の「座間味村」の項で「梅沢隊長の自決命令」を書いた大城将保・資料編集所主任専門員でした。

 その解説によると、1985年7月30日付の神戸新聞が、梅沢隊長ら関係者の談話をもとに、「日本軍の命令はなかった」とする記事を載せたことから、大城氏は梅沢隊長と直接連絡をとり、その意向を確かめ、手記の執筆を要望したのでした。

 大城氏が指摘するように、多くの住民証言から役場の書記が「忠魂碑前に集合して玉砕するように」と伝達した事実は確認されているが、村当局と軍との間に集団自決について事前の通達または協議があったのかどうか、が問題なのですが、大城氏の電話での質問に対して、梅沢氏は「そういうことはなかった」と否定したといいます。

 そして「隊長命令説は住民の証言をもとに記述されてきたが、当事者である梅沢元隊長から異議申し立てがある以上、真摯に受け止め、史実を解明する資料として役立てたい」とする大城専門員の解説のあとに、掲載された梅沢元隊長の「戦闘記録」には、「本部壕へやってきた村の幹部が『最後の時が来た。自決します。手榴弾をください』との要件に、愕然とし、『けっして自決するでない』と私は答えた」と記述されています。

 紀要の発行後、86年6月6日づけ「神戸新聞」は社会面トップに、翌日は「東京新聞」などが「部隊長の“玉砕命令”はなかった」と『県史』の修正を伝えたのでした(宮城晴美『母が遺したもの』など)。


▼6 「おじぃ、おばぁの証言」とは何だったのか


 さて、9月29日の「11万人の県民大会」で、高校生の代表は「おじぃ、おばぁの嘘だというのか?」と抗議の声を上げたといいます(9月30日、読売新聞)。「戦争体験者たちは軍の命令説を証言しているではないか。なぜそれを否定するのか」という批判です。年配者を大切にする沖縄の若い世代の訴えは、ずしんと心に響きます。

 しかし、県の公的資料に掲載された、おじぃ、おばぁの証言は逆に、集団自決の「軍強制」説を否定しています。集団自決の「軍強制」説を否定することが、おじぃ、おばぁを否定することになるとは限りません。

 10月18日には、九州地方県知事会議が、「軍の強制」を削除した検定意見の撤回を求める決議を全会一致で採択したのでしたが、あれはいったい何だったのでしょうか。文科省に要求するも何も、『沖縄県史』は「軍の強制」を認めているわけではありません。


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