皇祖神こそ本当の「船主」である──西尾幹二先生「東宮批判」に反論した田中卓名誉教授。カビ臭い「主権在民」イデオロギー=「神の死」の天皇論(2008年09月09日)
西尾幹二論文批判を続けます。今号は、「日本」9月号(日本学協会)に掲載された、田中卓・皇學館大学名誉教授による批判をご紹介します。
▽1 田中卓名誉教授の批判
田中名誉教授の批判は「西尾幹二氏に問う『日本丸の船主は誰なのか』」というタイトルに示されるとおり、日本の天皇制度という「船」(日本丸)の「船主」すなわち主権者は誰か、と問いかけています。
そもそも西尾先生は、天皇制度と天皇の関係を船と乗客の関係にたとえ、天皇家の人々はたまたま乗り合わせたのであって、「船主」ではないから、船酔いして乗っていられないなら「下船してもらうほかはない」と東宮批判をしていました。
これに対して、船主は誰なのか、と反問したのが田中名誉教授でした。西尾論文には「船主」についての記述はなく、しかも「乗客」としては皇族ばかりが特筆されていて、その他の乗客については言及がないと指摘されています。
西尾先生には『国民の歴史』という大著がありますが、これには天皇・皇室の歴史が抜けています。ここから田中名誉教授は、西尾先生の比喩から想定される「船主」は国民であって、だとすれば、国民の意思によって「乗客」である皇族を下船させ得る、あるいは船そのものを廃棄させ得る、革命の放伐(ほうばつ)論が西尾論文の底流に流れている、と論断するのでした。
▽2 答えになっていない西尾回答
じつは田中名誉教授は「日本」7月号にも「日本丸の船主が誰なのか」と問う短いエッセイを書いていました。
西尾先生はこれに対して、「船主のことは8月号に光格天皇の例できちんと書いている」などと答えていました(同誌8月号)。
「WiLL」8月号の西尾論文は、皇統断絶の危機にあって、「外から船に乗り移った新しい家系」の乗客として、光格天皇を記述しています。
しかし、光格天皇の即位の例は船酔いした乗客に下船してもらうこととは事情が異なるし、「船主」について回答したわけでもない、と田中名誉教授はさらに批判します。
そのうえで田中名誉教授は、日本丸の「船主」は皇祖・皇宗の御歴代であり、「乗客」は一般国民と考えるべきだと主張するのでした。
▽3 「神の死」の天皇論
田中名誉教授の批判はじつにもっともです。言葉を換えていえば、西尾先生はいかにも皇室尊重を装いつつ、国民主権の立場で東宮を批判しており、田中名誉教授はこれを真っ向から批判したのでした。
ならば田中名誉教授の批判に諸手を挙げて賛同し得るかといえば、少なくとも私は完全な同意を躊躇しています。
皇室が日本丸の船主なのか、それとも乗客なのか、つまり国民主権か、君主主権か、という議論は近代ヨーロッパ風の、いかにも古くさい響きがあります。
西尾論文は「皇室」対「国民」という近代的な対立構造の図式が底流にあり、主権在民の立場から東宮を批判しています。これに対して、田中名誉教授はいみじくも「主権在民という西欧のカビの生えた古いイデオロギー」を批判するのでした。
田中名誉教授の批判には言及がありませんが、皇室が「船主」たり得るのは、皇祖神の神意があるからです。繰り返しになりますが、ほんとうの「船主」である皇祖神を抜きにした、いわば「神の死」の天皇論から東宮を批判するところに、西尾論文の最大の欠陥があります。
なお、いわずもがなですが、私は読者の皆さんに皇祖神への信仰を求めているのではありません。
注=日本学協会発行の「日本」についてはこちらをご覧ください。