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言葉が独り歩きする「女性宮家」創設論──所功教授の「正論」3月号論考を読む(2012年02月05日)


 今回もいわゆる女性宮家創設問題について書きます。

 誰が言い出したのかも分からない、その目的も中味もよく分からない、したがってまともには論ずるに値しないはずの「女性宮家」創設論の言葉だけが独り歩きしています。

 たとえば、雑誌「正論」3月号に掲載されている所功京都産業大学教授の「宮家世襲の実情と『女性宮家』の要件」はその典型というべきです。


 所先生はたいへんまじめな、いい方ですが、先生の論考は私の理解能力を超えています。


▽1 羽毛田長官は「女性宮家」を提案していない

 まず、論考のテーマについてです。

 先生は論考の冒頭で、「象徴」「世襲」の天皇制度を可能なかぎり強化するよう努めなければならない。そのために「女性宮家」の創設が創設される必要があると訴えているのですが、私が理解に苦しむのはその次です。

 先生は、昨年10月に羽毛田長官が野田首相に「女性皇族が婚姻により皇室を離れる」ので、「皇室のご活動に支障を来す」。制度改正が遅れれば「姉妹間で差異を生じる」ことを説明したと述べ、そのあと皇位継承論を展開しています。

 先生の理解では、「女性宮家」創設論の発端は、一般の理解と同様、羽毛田長官の発言に置かれています。なるほどそのような新聞報道もあるのですが、実際に長官が「女性宮家」創設を提案したかどうかは不明です。すでに当メルマガでお話ししたように、「週刊朝日」昨年12月30日号の当代随一の皇室ジャーナリスト・岩井克己記者の記事では、長官が強く否定しているからです。


 羽毛田長官はおそらくこのとき「女性宮家」創設を野田首相に語っていないのでしょう。それかあらぬか、所先生の論考でも、「女性宮家」問題ではなく、「皇室の活動」問題として述べられています。

 であるならば、女性皇族が皇籍離脱したあとの皇室のご活動をどう確保すべきか、ということが論考のテーマになるはずです。

 ところが、先生の論考はいきなりテーマが飛んでしまうのです。

 当メルマガでは「女性宮家」創設の提唱者が渡邉允前侍従長であることを指摘してきましたが、前侍従長は「女性宮家」創設は皇位継承問題とは「別の次元の問題」だと再三繰り返しています(渡邉『天皇家の執事』文庫版「後書き」)。


 なぜ所先生は、「女性宮家」創設論を皇位継承問題として展開されるのでしょうか? 何か特別の思惑があるのでしょうか?


▽2 なぜ淑子内親王は独身を貫かれたのか

 第二は、「女性宮家」の概念です。

 先述したように、最初の言い出しっぺも、その中味も、よく分からないのが「女性宮家」です。

 ところが、所先生にとっては、その概念はきわめて明白です。

 先生は「この『女性宮家』案は、8年前、『皇室典範有識者会議』で検討し、その報告書に『皇族女子は、婚姻後も皇室にとどまり、その配偶者も皇族の身分を有することとする必要がある』としている」と述べています。

 つまり、先生は、「女性宮家」とは皇族女子が皇室にとどまることを意味するとお考えのようです。

 けれども、同報告書には「女性宮家」とは書いてありません。単に皇室にとどまることと、宮家の創設とは明らかに異なるのではありませんか?

 第三は、歴史に対する理解です。

 先生は、過去の歴史に女性が宮家を継いだ例があることを指摘します。

 すなわち「皇位と同様、宮家も男系の男子で世襲されてきたが、……桂宮家では、幕末に皇女を迎えて、当主とした例さえある」というのです。

 しかし、これは歴史の探究が甘いといわねばなりません。

 先生は「文久2年(1862)迎えられたのが、仁孝天皇の皇女淑子(すみこ)内親王(34歳)である。これは史上初めての皇女を当主とする宮家だが、未婚のまま20年後薨去された結果、桂宮家は11代で断絶した」と書いています。

 なぜ淑子内親王は未婚のまま薨去されたのか、歴史家ならばそこにこそ関心がいくはずです。「薨去された結果、断絶した」のではなく、因果関係は逆ではないのでしょうか? けれども、先生は紙幅の制限のためか、「女性が宮家を継いだ例」としか解説していません。

 さて、論考の冒頭にもどりましょう。

 先生は「象徴」「世襲」の天皇制度を強化する必要があると仰せです。

「世襲」とは、小嶋和司東北大学教授が述べているように、皇室という王朝による支配の意味でしょう。だとすれば、男系男子継承の断絶をもたらす、過去の歴史にない「女性宮家」の創設ではなく、葦津珍彦先生が述べたように、「男統の絶えない制度」を考えるべきではないでしょうか?


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