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謙虚に学び、祈りつつ待つ皇后陛下──西尾幹二「御忠言」が突き付ける「下船」以外の選択肢(2008年07月29日)
前号では、評論家の西尾幹二先生が月刊「WiLL」誌上で展開している皇太子・同妃両殿下への「御忠言」について、考えました。
先生は「妃殿下問題」を近代社会の能力主義と皇室の伝統主義との相克ととらえているのですが、そうとばかりはいえないことなど、3点の指摘をしました。
今号ではひきつづき6月号の論考を取り上げるつもりでしたが、予定を変更して、前号の補足をします。
前号で申し上げましたように、「原理を異にするふたつの世界がぶつかった」ということなら、皇后陛下にも当てはまるのであり、したがって皇太子妃殿下についても「下船」以外の選択肢があり得ます。
むしろ、初の「民間」出身で、ミッション系大学に学んだ皇后陛下の歩みは、「適応障害」とされている妃殿下にとって、大いに参考になるはずです。
▽1 ゆっくりと階段をのぼるように
アンドレ・マルロー研究で知られる竹本忠雄・筑波大学名誉教授の近著『皇后宮(さきいのみや)美智子さま祈りの御歌(みうた)』に、そのヒントがつづられています。
![](https://assets.st-note.com/img/1732416305-iEJr9CfUP0XSTxqaRW7mwghj.png)
皇后陛下は大学生のころ、宗教への道を深く求められ、シスターたちの思想や生活態度から多くを学びました。けれども結局、カトリックに帰依(きえ)することはありませんでした。
それはなぜなのか?
──神は全知全能であり、至高の愛だとされている。それなら神は予知しつつ、誤ったアダムとイブを創造し、自由な意思を与え、「悪」の選択を許したのか? なぜこの世に「悪」があるのか? なぜ神は「悪」の存在を許されるのか?
若き日の皇后陛下は深い魂の模索をみずからに課し、独自の道を歩まれたのでした。
その後、皇室に入られた皇后陛下は何らかの回答を得られたのでしょうか。竹本さんが拝謁のときにうかがうと、陛下は「何も」と静かに答えられ、「ただひとつ分かったこと」は、ご結婚やお子様の誕生で「未知の愛の存在」だったと語られたといいます。
ひとつひとつの新しい愛の形に触れながら、ゆっくりと階段をのぼるように歩いているうちに、人知でははかれない至高の愛に触れ、受け入れられる日が来るかも知れない。
にわかには理解できないものを直ちに否定せずに、時間をかけて求めていくのが皇后陛下の姿勢なのでした。
▽2 祭祀の潔斎の重み
竹本さんによると、皇后陛下のお話は宮中祭祀の潔斎(けっさい)の重みに転じていったそうで、祭祀に対する皇后陛下の姿勢について、著書では、松村淑子・元女官長の証言を引用しています。
宮中の祭祀は古式にのっとり、何度も手を清め、口をすすぎます。皇后陛下は女官長にいつかお話しされたのでした。
「むかし聖地といわれる場所に行った人たちは、遠い道のりを行き、自分の気持ちを清めていったでしょう。繰り返し口をすすぎ、手を清めるのは雑多な日常を離れ、俗から聖に移るときの大切な道のりだと思うようになりました」
理解できなくともすぐに否定するのではなくて、対象の大きさを思い、自分の理解の届かぬことを思う。そして謙虚に学び、祈りつつ待つ。そのように皇后陛下は歩んでこられたのだと竹本さんは書いています。