大嘗祭は「米と粟」の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直す(2011年12月18日)
先月、政教関係を正す会のシンポジウムで、大嘗祭が稲と粟の複合儀礼であることについてお話ししたところ、旧知の神道学者から「新嘗祭と異なり、大嘗祭には粟は登場しないのではないか」というご指摘をいただきました。
著名な研究者からの指摘ですから、無視することはできません。まして、「大嘗祭は稲と粟の複合儀礼ではない」ということだとすると、私の年来の主張はもう一度組み立て直さないといけなくなります。
これはたいへんです。
私がこれまで宮中祭祀を説明するためにしばしば引用してきたのは、八束清貫元宮内省掌典の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』所収)ですが、これには残念ながら大嘗祭についての記述がありません。
ということで、あらためて大嘗祭について、ほかの資料を読み直すことにしました。
▽1 宮地治邦が紹介する「大嘗祭神饌供進仮名記」
『神祇史概論』の著者として知られる宮地治邦(東京女学館短大学長)には、タイトルもずばり、「大嘗祭に於ける神饌に就いて」(『千家尊宣先生還暦記念神道論文集』昭和33年所収)という論文があります。
宮地の論考は、京都・鈴鹿家の「大嘗祭神饌供進仮名記」(仮題)一巻を紹介しつつ、御親祭の中身を解説しています。
宮地が書いているように、大嘗祭については、「儀式」「延喜式」「後鳥羽院宸記」「伏見院御記」「西宮記」「北山抄」「江家次第」「大嘗会儀式具釈」など、多くの記録があるけれども、宮中の御儀は秘儀に属し、民間に触れることがはばかれてきたのでした。したがって誤解も生まれます。
後鳥羽上皇の日記である「後鳥羽宸記」などは漢文体で書かれていますが、宮地が紹介する「仮名記」は文字通り仮名で書かれてあり、たいへん読みやすくなっています。
大嘗祭で新帝が神前に供する神饌御進供については次のように書かれています(斎藤吉久注。さらに読みやすくするために、句読点を補っています)。
「次、陪膳、両の手をもて、ひらて一まいをとりて、主上にまいらす。主上、御笏を右の御ひさの下におかれて、左の御手にとらせたまひて、右の御手にて御はんのうへの御はしをとりて、御はん、いね、あわを三はしつつ、ひらてにもらせたまひて、左の御手にてはいせんに返し給ふ……」
以上、神饌御進供のようすがきわめて具体的に、生々しく記されています。もちろん天皇が供進される神饌が米と粟であることも分かります。
宮地の文章によれば、神饌御進供で、天皇はまず米飯を3箸、つぎに粟飯を3箸、枚手(ひらで)に盛り、陪膳の采女に返し、陪膳はこれを神食薦(かみのすごも)のうえに置きます。御飯の枚手は10枚、供せられます。
その後、4種の鮮物、4種の干物、海藻汁漬、鮑汁漬、4種の果物が供され、さらに白酒黒酒が供され、そのあとに米の御粥、粟の御粥が供されます。
論文の最後に、宮地は神饌について説明していますが、「御飯(おんいい)」について興味深い記述があります。
御飯とは米と粟の蒸しご飯を意味する、とあり、さらに、「後鳥羽院宸記」の記述について、御飯は4杯である、2杯とする記録があるが、じつは米2杯と粟2杯である、これは秘事である、と書かれてある、と宮地は解説しています。
大嘗祭が、新嘗祭と同様、米と粟の複合儀礼であることが、あらためて理解されます。
▽2 詳細な田中初夫の研究
つぎに、田中初夫『践祚大嘗祭 研究篇』(昭和55年)を開いてみます。この本は、三笠宮崇仁親王殿下、入江相政氏の序文、フロイド・ロス氏の跋文が載っています。
筆者は明治39年生まれで、同書の出版当時は東京家政学院短大教授ですが、それ以上の権威を感じさせます。
田中は数ページにわたって、米と粟について、考察しています。
田中はまず、天仁元(1108)年の大嘗会について大江匡房が記した「天仁大嘗会記」を取りあげています。匡房は「江家次第」の著者でもありますが、田中によれば、大嘗祭についての記述は「大嘗会記」の方が詳細です。
大嘗祭の神饌に関してもくわしいはずなのですが、「御飯」と記されるのみで、説明らしい説明がありません。
つぎに田中がとり上げるのは、先述した「後鳥羽院宸記」です。後鳥羽上皇は、建暦2(1212)年10月21日の日記に、御飯は4杯なり、じつは米2杯、粟2杯なり、これ秘事なり、などと記述しています。
さらに、「伏見院御記」の正応元(1288)年11月22日の記事には、御飯に4杯あり、先の5平手は米、次の5平手は粟、などとあります。
さらにまた、「後伏見天皇御記」の延慶2(1309)年11月の記事にも、御粥、米粟各2盃ずつ、などとあります。
これらの資料をもとに、田中は、匡房の「大嘗会記」には粟のことが記されていないから、粟はその後、加えられたということがいえるかも知れないが、むしろ粟の方が古い伝承を伝えていると考える方が自然かと思われる、と書いています。
というのも、後伏見天皇のお言葉にその根拠があるからです。
田中によれば、永仁のときに、故実に通じた信濃という采女の意見を採用し、旧例に従うべきであるとして、粟を加えることにされたというのです。
もちろん永仁以前にも、粟が供されたことは、建暦の宸記にも、建保神膳記にも記されており、古くからのしきたりであったろうけれども、匡房の「天仁大嘗会記」には「窪手一口」とあり、これでは米飯だけになってしまう。これは謎である、と田中は書いています。
古い時代はどうだったのか、田中は新嘗祭について考えます。
延喜式には、宮内省の部にも、大炊寮の記述にも、米と粟が併記され、同時に用いられたことが分かる、と田中は書いています。
新嘗祭ばかりではありません。同系の祭りである神今食でも同様であり、さらには天皇の日常の食事も米と粟だったことを推測させる記述が延喜式の大炊寮にあります。
以上のことから、田中は、「推測するに、大嘗祭においても、粟は古くから用いられていたものではないかと考えられる」と結論づけています。
さらに田中は、上総国の安房大神を御食津神として神嘗大嘗などに仕え奉ったとされているのは、粟が宮中の神祭りに用いられていたことを暗示しているのではなかろうか。また、「常陸国風土記」に「新粟新嘗」と記されている背景には古代の記憶があるのではないか、と推測しています。
▽3 川出清彦が注目した神饌行立の粥八足机
最後に取りあげたいのは、『祭祀概説』『神社有職』などで知られる川出清彦の『大嘗祭と宮中のまつり』(平成2年。初出は『大嘗祭の研究』皇學館大学神道研究所、昭和53年)です。
川出は、大嘗祭の祭儀について、くわしく解説しています。
神饌行立(ぎょうりゅう)のくだりで、川出は、粥八足机に言及しています。『貞観儀式』『延喜式』『西宮記』『北山抄』『江家次第』『兵範記』『大嘗会神膳仮名記』などを見ていくと、『兵範記』以後、神饌行立の最後に粥八足机が加わるようになるというのですが、ここに「粟」が見えます。
川出は、古くから御粥が供進され、かつては御飯筥のなかに米の御飯御粥、粟の御飯御粥が納まっていたのが、のちに八足机に載せて供されることに改まった、と推測しています。
以上のように、神道学者たちの研究では、古来、大嘗祭で米と粟が神前に供せられていたことが知られています。
けれども、なぜ米と粟の儀礼が行われてきたのか、について、少なくとも以上の研究には説明が見られません。