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所功先生、いまさらの「政府批判」の真意──もしかして矛先は男系男子継承維持派に向けられている(2018年9月24日)

(画像は新元号を発表する菅官房長官。官邸HPから拝借しました。ありがとうございます)


 新元号論議について、書きます。

 報道によると、9月22日、京都の大学を会場に開かれた、元号がテーマの公開シンポジウムで、敬愛する所功京産大名誉教授が、新元号の事前公表について「ルール違反」と指摘したとされます。先生が政府を批判されるとは、驚き桃の木です。

 記事によると、所先生の指摘は以下の通りです。

1、「平成」は来年4月30日の真夜中に終わるが、新元号がいつ決まり、発表されるかはたいへん重要だ。

2、皇位継承は5月1日午前0時であり、そのあと閣議が開かれ、政令を定め、天皇の署名捺印が求められるべきである。

3、ところが、政府が1か月前の事前公表を発表したため、「よろしくない」と批判が起き、混乱を招いている。

4、過去の例からすると、1か月くらいの猶予を置くことは不適切ではない。6月1日政令施行でもいいと思う。

 所先生が何を「ルール違反」と指摘したのか、記事ではよく分かりませんが、おそらく改元の権限はもともと新帝にあるのだから、「平成」の時代に新元号を決定し公表することは適切ではないと述べられたものと推測されます。

 皇位継承に先立つ新元号の決定・公表が不適切であるのはまったく仰せの通りで、異論はありませんが、手遅れともいえる今ごろになって、なぜ批判をなさるのか。真意はどこにあるのでしょうか。


▽1 践祚即日改元にこだわる政府


 これまでの経緯を少し振り返ってみます。

 次の御代替わりに関する日程は、昨年12月1日の皇室会議を経て、「4月30日退位、5月1日即位・改元」が同8日の閣議で決定されました。退位特例法の施行日が「4月30日」とされたからです。

 正確にいうと、以前、書いたように、皇室典範特例法はあくまで「退位」に関する規定であり、閣議の決定は特例法の施行日、すなわち退位(譲位)の期日のみでした。閣議後の会見で記者の質問を受けた菅官房長官はようやく「翌日即位」に言及し、改元については「5月1日を軸に検討したい」と述べたのです。改元に関する初めての言及とされます。

 まともに意見したいなら、このとき声を上げるべきですが、議論らしい議論は起きませんでした。践祚即改元など、まるで非現実的なのに、です。そもそも退位(譲位)と即位(践祚)と改元を整理せずに議論することが間違いなのです。

 明治42年制定の登極令では「践祚の後は直ちに元号を改む」(第2条)と定められていますが、昭和54年の元号法は「皇位の継承があった場合に限り改める」と一世一元を規定するのみで、「直ちに」はありません。したがって、法律上、践祚即日改元にこだわる理由はありませんし、事実、「平成」は翌日改元でした。


 政府はその後、「退位の翌日即位・改元」「即位当日改元」の既成事実を積み上げていきましたが、どだい、無理があるのです。それはIT社会の壁です。5月1日に改元するなら、総理官邸ほか各官庁のコンピュータ・システムを新元号に切り替えるには準備期間がどうしても必要です。

 案の定、今年5月、政府は新元号を改元1か月前の4月1日に公表することとし、準備を進めることを決定しました。システム改修には1か月かかるという判断からです。

 こうして法律上やむを得ないならいざ知らず、法的制限があるわけでもないのに、歴史上認められてきた新元号決定の権限を、新帝から奪うことになったのです。そもそも元号法には「元号は政令で定める」とあるばかりで、主体は不明確ですから、容認されると政府は考えているのかも知れません。


▽2 日本会議の「践祚即日改元」に反対


 新元号の事前公表は所先生が仰せの通り「ルール違反」というべきで、まったく正しいですが、なぜ今ごろになって先生は異議を申し立てるのでしょうか。

 政府は今年1月から準備委員会を3回にわたって開催し、その間、有識者によるヒアリングも行われました。4人のうちの1人が所先生でした。

 ヒアリングのテーマは退位と即位の式典に関するもので、改元ではありませんでしたが、元号に詳しい数少ない有識者の一人であるからには、「即日改元」に無理があることを政府に対して指摘すべきだったのではないでしょうか。

 しかしそうなさらないのは、先生には政府の政策を批判するという発想がもとよりないからかも知れません。先生の批判はおそらくほかに向けられているのでしょう。

 政府が「4月1日公表」を決定したあと、保守系の国民運動団体である日本会議は事前公表に強く反対する姿勢を示すようになりました。所先生の批判はこの日本会議に向けられているのではありませんか。

 女性天皇のみならず歴史にない女系継承をも容認する先生としては、これに強力に反対する日本会議はともに天を戴かざる仇敵です。これまで厳しい批判にさらされてきた先生の意趣返しでないことを祈りたいものです。

 日本会議は新帝即位の5月1日当日に新元号公表、即日施行を主張しています。先生の場合は当日公表までは同じですが、1か月後の6月1日施行を提案しています。新元号の事前公表反対で両者がまとまるならいいのですが、そうはいかないのでしょう。

 不思議なことに、いやむしろ、であればこそというべきか、日本会議も所先生も、もっとも肝心なIT技術論が欠落しています。


▽3 「即日改元」が行われたのは昭和の一例のみ


 所案は、改元の準備を進める政府関係者にとっては、1か月の延期ですから、それだけ時間的余裕が与えられるわけで、むしろありがたい提言です。日本会議案よりははるかに受け入れやすいといえますが、これもまた「ルール違反」ではないでしょうか。

 所先生は歴史家であり、とくに元号の専門家でもありますが、歴史上、女系継承がなかったのと同様、践祚後1か月後の改元というような歴史はないはずです。歴史的根拠を欠く提言をなさる意味がまったく理解できません。

 先生が執筆した『年号の歴史』や『元号』を読むと、延暦から大同への改元のことが書いてあります。延暦25年3月に桓武天皇が崩御され、皇太子(平城天皇)が践祚した当日に改元されたことを正史『日本後紀』は、先帝崩御の翌年に改元すべきだ、年内改元は二君に仕えることになる、と異例の批判を行っているとあります。


 奈良時代には践祚同日改元が4例あるようですが、延暦以後、年内改元を控え、翌年に改元する「踰年(ゆねん)改元」という考えが一般化しました。

 蛇足ながら、ある保守派の識者は、即位礼当日改元を提言する私に、「1年後なんてあり得ない」と切り捨てましたが、踰年改元を知らないのでしょう。皇室の歴史を知らない尊皇派人士が即日改元を主張しているのです。

 それはともかく、明治の改元も踰年改元でした。けれども、明治42年の登極令で即日改元が法制化されます。過去にない新例が開かれたのです。

 しかし実際に即日改元が行われたのは昭和の一例のみです。


▽4 「即位礼当日改元」を建策した岩倉具視


 明治の初年には一世一元の制が定められました。岩倉具視の建策によるとされますが、岩倉の文書には「御即位同日改元」とあり、明治天皇の即位礼当日に改元し、同時に一世一元の制を確立しようとしたというのが所先生の説明です。

 既述したように、結局、明治の改元は踰年改元でした。一世一元の制は定められましたが、法制化は42年制定の登極令まで遅れました。明治22年の皇室典範制定では元号に関する議論が行われていないようです。

 登極令の制定は、宮内省の臨時帝室制度取調局で行われ、伊東巳代治副総裁が熱心に取り組んだと所先生は説明しますが、なぜ践祚当日改元という新例が開かれたのか、残念ながら、先生の著書には解説が見当たりません。

 しかも最初の事例となったはずの「大正」の場合、明治天皇の崩御は「午後10時43分」(『昭和天皇実録』)でしたが、日付変更まで1時間余りでは改元の手続きができないことから、崩御の時刻は翌日の「午前0時43分」(『明治天皇紀』)と、2時間遅らせることとされました。法律より現実が優先されたのです。


 所先生が提唱する、古来の歴史にない、近代にもない「践祚1か月後改元」とする根拠は何でしょうか。「1か月ぐらいの猶予を置くことは不適切ではない」程度のことでは、不十分です。日本会議が提案する「践祚即日改元」は現実的に無理として、岩倉具視の建策にある「即位礼当日改元」ではいけませんか。


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