「転生活仏」が治める国チベット──カルマパ17世「亡命」の背景(「神社新報」平成12年2月14日)
先月上旬、中国政府が公認するチベット仏教カギュー派の最高位活仏で、チベット仏教界ナンバー・スリーといわれるカルマパ17世が中国・チベット自治区の区都ラサを密かに脱出し、インドに事実上、亡命したというニュースが世界を駆けめぐった。
チベット仏教の最高指導者でノーベル平和賞受賞者のダライ・ラマ14世の亡命政府があるインド北部のダラムサラまでは直線距離にして1500キロ、東京−大阪間の3倍もある。カルマパ17世は昨年末、姉や側近らとともにラサを出発、陸路、8000メートル級の山々が連なる厳冬のヒマラヤを越え、ダラムサラにたどり着いたと伝えられるが、10日足らずの脱出行の背後にはネパール国内に基地を置く米CIA(中央情報局)の協力があり、山岳用ヘリを使ったという情報もある。
中国、インド両国政府とも慎重な姿勢を崩さないなかで、月末には亡命申請のニュースが飛び込んできた。
今回はチベットの歴史を振り返り、亡命劇の背景を考える。
▢ふたりの王妃が伝えた仏教
▢現世で人を救い続ける活仏
チベットの建国は紀元前127年、第1代ニャティツェンポ王の即位に始まるといわれる。当時はポン教と呼ばれる自然崇拝と祖先崇拝を基本とする固有の民族宗教が信仰されていた。
仏教が最初にチベットの地に入ったのは第32代ソンツェン・ガンポ王の治世という。王は7世紀初頭にチベット諸侯を統合し、強力な王朝を建てた。
中国・唐の太宗は皇女文成公主を降嫁させ、ネパール・ネワール朝からは王女ブリクティが妃として迎えられた。王は2人の妃を通じて仏教を知り、仏教による政治を推進する。ラサその他に多くの寺院が建てられ、仏教文化が花開いた。チベット文字が作られ、仏典が翻訳された。
その後、8世紀には第37代チソン・デツェン王が、9世紀には第41代ラルパチェン王という仏教的信仰心の篤い偉大な王様が現れたが、第42ランダルマ王は逆に仏教を憎み、寺院を破壊し、仏教徒に残虐を加えた。
チベット仏教が危機に瀕したとき、指導者と仰がれたのは修行僧で、国家の分裂と戦乱が続いた末の17世紀半ば、第5世ダライ・ラマのとき、政教一致のダライ・ラマ法王政権が誕生する(ダライ・ラマ14世『大乗仏教入門』など)。
テレビでおなじみのチベット文化研究所所長で岐阜女子大学教授のペマ・ギャルポ氏によると、チベット人は仏教の「輪廻転生」の考え方に加え、法統の代表者の連綿とした連なりを認識し、独特の法統転生相続の制度を確立したという。
14世の偉大な学僧ツォンカパのもっとも優れた弟子で、観音菩薩の化身と考えられたゲドゥン・トゥプを第1世とし、3代目のソナム・ギャツォがアルタイ汗に招かれてモンゴルを訪れ、アルタイ汗をゲルク派の仏教に改宗させた。このときに賜ったのが「ダライ・ラマ(知恵の海)」の称号である(ペマ・ギャルポ『チベット入門』)。
「生き仏」と簡単に説明される「転生活仏」とは何か。元東京大学教授・山口瑞鳳氏はこう説明する。
仏教では、人間は輪廻の世界で業の束縛を受け、転生を重ねる、と考える。もはや転生しないことが涅槃であり、涅槃に達した聖者が没すると、もはや輪廻の世界に生まれ変わることはない。小乗仏教ではこれを理想としたが、大乗仏教は異なる。自分のために解脱の境地を求めるあり方は低く見られるようになった。
仏陀の境地は凡俗が1代で達し得るようなものではなく、輪廻の世界で菩薩として利他行を極めた末にはじめて到達できる。大乗仏教徒が学ぶのはこの菩薩行だが、最終的に涅槃の境地に達しても、自分のために涅槃の境地を求める気持ちがないために涅槃に安住せず、輪廻の世界にとどまって人々を救い続ける。これを「無住処涅槃」と呼び、至高の境地とされた。
チベットではいつとはなしに名僧は仏がこの世に送り出した化身の菩薩だと考えられるようになり、この名僧を中国人は「活仏」と呼んだ(山口『チベット』)。
今回のカルマパ17世の「亡命」は複数の活仏がおられるという事実を知らしめた。いったい何人ぐらいの活仏がおられるのか、東京・新宿にあるダライ・ラマ法王日本代表部事務所のギュルミ・ワンダー情報・国際局長に聞いたところ、意外にも「分からない」という答えが返ってきた。
活仏はニンマ派、カギュー派、サキュ派、ゲルク派など宗派ごとに認定され、さらにダライ・ラマの承認を受けるのだが、そのほかに多くの化身の菩薩がおられる。しかしあくまで宗教的、精神的なもので、誰が活仏かは簡単には分からない。名簿もなく、人数を数える意味もないから数えられない。
「何百人いるかも知れないし、何千人かも知れない」
活仏に序列があるはずもなく、カルマパ17世を「チベット仏教界ナンバー・スリー」などとマスコミが説明するのも意味がないという。
▢農夫の子供に産まれた14世
▢チベット暴動でインドに亡命
ダライ・ラマ14世はどのようにして転生者と認められたのだろう。
自叙伝によると、14世は1935年5月に東北チベット、いまの青海省のタクツェルという小さな美しい農村に農夫の子供として生まれたという。
生活は質素だったが、幸福に満ちていた。それは「第13世ダライ・ラマ・トゥプテン・ギャツォのおかげであった」。タクツェル村は中国支配下にあったが、13世こそが精神的、宗教的指導者であった。
1933年にダライ・ラマ13世が亡くなると、ただちに転生者を探す国家的大捜索が始まる。
ラサから北東の空に奇妙な形の雲が見られた。ダライ・ラマ13世の遺体は、死後、ラサにある夏の離宮の玉座に南面して座らせてあったが、数日後、その顔は東に向きを変えていた。また遺体が安置される聖堂の北東の木の柱に星の形をした大きな茸が現れた。これらは転生者を探し出す方角を暗示していた。
35年、摂政はラサ北東90マイルにある聖なる湖で祈りと冥想の数日を過ごした。摂政は水面にア・カ・マというチベット文字の幻影やヒスイのような緑色と金色の屋根のあるお寺、トルコ石のような青緑色の瓦葺きの家のような風景を見た。
翌年、高僧高官がチベット全土に派遣された。タクツェル村にはチベット史上最初の化身者でカルマ派第4世転生者が建てた古刹があり、緑色と金色の屋根を備えていた。トルコ石のような色の屋根を持つ家には2歳の男の子がいた。
貧しい身なりに変装した高僧が訪ねると男の子はその膝に座ろうとし、首にかけた13世愛用の数珠を「ボクに頂戴」とねだった。やがて男の子はダライ・ラマの転生者と信じられるようになる。
ラサのポタラ宮殿で即位式が執り行われたのは1940年1月である(ダライ・ラマ14世『チベットわが祖国』)。
49年10月、チベット情勢が風雲急を告げる。中華人民共和国成立後、中国共産党は、「チベットは中国の一部」と主張して、「チベット解放」を宣言、翌年10月、武力侵入した。近代的軍備を持たないチベットは人民解放軍の敵ではなかった。できることは国連や近隣諸国に訴えることだけだった。
結局、「チベット民族は中国領土内において悠久の歴史を持つ民族の1つであり……」で始まる屈辱的な「17条協定」をチベットは一方的に呑まされる。日中戦争以後、中立を維持してきたチベットは、第2次大戦後に多くの国が独立を獲得したなかで、逆に独立を失ってしまう。
人民解放軍の大軍が進駐し、寺院や自然の破壊と略奪が始まり、男たちは道路建設に駆り出され、女たちは乱暴された。インフレが起こり、飢餓が生じた。
各地で暴動が発生し、59年3月には民衆が一斉蜂起する。チベット暴動である。中国軍は抵抗するチベット人を殺戮した。ダライ・ラマはインドに逃れ、翌年、ダラムサラに亡命政府を樹立する(チベット亡命政府情報・国際関係省『チベット入門』など)。
▢中国侵略で120万人の犠牲者
▢非暴力を貫くチベットの闘い
ワンダー氏らの話を総合すれば、中国軍の侵入後、東南チベットのカム州の大部分が隣の四川省に組み込まれるなど、国土は分断され、奪われた。
それどころか、1950−83年の間に全チベット人600万人のうち43万人が戦闘で、34万人が飢餓のために、計120万人の命が奪われた。
さらに村ごとにある、その数6000といわれたお寺は砲撃などでほとんどが破壊され、仏像は弾丸になり、石に彫った経典や仏画は道路の敷石となった。いま活動している寺院はわずかに45以下という。
チベット人は他者のために生きることがもっとも尊いと考えている。それゆえにこそ僧侶の社会的地位は高いのだが、僧侶の数は中国の侵略後、15万人から1400人に激減した。還俗を強制され、従わなければ強制収容所送りとなったという。また、18歳にならなければ出家は認められないような現状では、僧侶として十分な勉学や修行を積むことは不可能だ。布教も禁じられている。
いま経済は中国全土を上回るスピードで成長しているともいわれるが、チベット人の生活レベルは上がっていない。移住政策で流入し、750万人にまで膨れ上がった中国人との格差は拡大するばかり。
開発優先による自然破壊で森林面積は半減し、その結果が一昨年の長江の大洪水だった。核廃棄物による環境汚染も深刻という。
自由と教育の機会を求めて、何よりダライ・ラマに会いたいという一心で、命がけで脱出するチベット人は年間数千人。多くは子供や僧侶で、この40年間で計13−15万人に上る。近年、増加傾向にある。
問題解決のため、ダライ・ラマ14世は中国に対して対話を呼びかけてきた。
87年9月にはアメリカ議会で、チベットを非武装地帯とすることなどを柱とする「5項目和平プラン」を提案した。88年6月、ストラスブールの欧州議会では、中国からの分離・独立という考えを捨て、中国という枠組みのなかで中国と協調して民主的な自治政府を設立する新見解が示された。より現実的な選択として、中国の外交権を認めようという提案である。
89年、ダライ・ラマ14世はノーベル平和賞を受賞する。「チベット解放闘争で一貫して非暴力主義を貫いてきた」ことが評価されたのだ。だが、中国政府は「内政干渉」と反発する。
日本の「侵略」「南京大虐殺」をことあるごとに指弾する中国のもうひとつの顔がここにあるのだが、それでも14世は無条件の対話を呼びかけ続ける。
一昨年3月のチベット民族蜂起40周年記念日の声明では、「チベットの独立も、中国からの分離も求めない解決方法」をあらためてアピールした。
中国に対する怒りや憎しみでいうのではない。14世にとって、中国はむしろ慈悲の対象なのだ。慈しみと哀れみの心によって、対話と相互理解によって非暴力の社会がつくれると14世は信じている。
さて、カルマパ17世の「亡命」に世界の耳目が集中する折も折、ダライ・ラマ14世はこの4月に来日し、東京では数千人を集めて法話が催される。いったい何が語られるのか。