産経新聞・阿比留瑠偉論説委員さま、天皇はいかなる「祭祀王」なのでしょうか?──国連女性差別撤廃委「葛城奈海スピーチ」記事を読む(令和6年11月3日)
(画像は宮中三殿。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)
すでに書いたように、国連の女性差別撤廃委員会は先月29日、皇位継承を「男系男子」に限定する皇室典範の改正を勧告する「最終見解」を発表した。
産経の報道によると、これに先立って、「皇統を守る国民連合の会」の葛城奈海会長は、同委員会の会合で、男系継承主義=「女性差別」との見方に反論した。
これについて、産経の阿比留瑠偉・論説委員が自身のコラムで、「皇位継承と官民の協力 スイスで機能した『主張する日本』」と題して、あらためて取り上げている。考えさせられる興味深い内容なので、ご紹介したい。
◇1 「官民協力」による対外的主張
阿比留さんのエッセイの要点は、以下の4点かと思われる。
1、葛城会長は「天皇は祭祀王だ。ローマ教皇やイスラムの聖職者、チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ法王はみな男性なのに、国連は女性差別だとは言わない」と語った。
2、阿比留さんは8年前のことを思い出した。同委が皇室典範の見直しを求めようとし、日本政府の抗議によって最終的に削除した。当時の安倍総理は憤りをあらわにし、「だったら、ローマ教皇についても『何で女性はなれないのか』と勧告してみろよという話だ。あいつら絶対にそうは言わない。今回は外務省にもきちんとやらせた」と語った。
3、今回、日本政府代表が「皇位継承のあり方は国家の根幹をなす。委員会がわが国の皇室典範について扱うのは適切ではない」と述べたことについて、葛城代表は「いい意味で官民協力できた」と語っている。安倍政権以降の歴史認識や文化・伝統について「主張する日本」が機能したようだ。
4、ただ、国連を含めた欧米がルールを決め、自己都合で変更する国際社会は、今後も理不尽な口出しを続けるだろう。捕鯨問題がそうだった。欧米の勝手なルールを押し付けられないためには、今後も官民連携が欠かせない。
阿比留さんの記事は、皇位継承問題それ自体ではなくて、むしろ焦点は欧米が決める国際ルールと国家の根幹に関わる文化と伝統との相克に当てられ、官民協力による対外的主張・発信が欠かせないと訴えている。
◇2 むしろ呉越同舟か?
阿比留さんのお考えは十分に理解できる。ただ、皇位継承問題に限っていえば、私には、今回の「官民協力」なるものも、むしろ呉越同舟の疑いを禁じ得ない。
まず第一に、阿比留さんのエッセイは、「胸がすく思いがした」という葛城会長の言葉より、安倍総理の思い出に大半が割かれている。阿比留さんの安倍総理への深い個人的な思い入れに介入するつもりはないが、事実の問題として、今回の御代替わりの中枢にいた安倍総理は、皇室の悠久なる歴史と伝統を守るためにどれほどの努力を重ねたのだろうか? 安倍総理がナショナリストであることは間違いないとして、尊皇家かどうかは疑わしい。というより、皇室について十分な知識を持っていたのかどうか。結果として、「退位」と「践祚」は分離され、大嘗祭は宗教的行事=「皇室の私事」という従来の解釈を変えられなかった。あまつさえ歴史の事実はねじ曲げられた。
第二に、たしかに日本政府代表は委員会の審査会で、「皇位継承のあり方は国家の根幹をなす。委員会がわが国の皇室典範について扱うのは適切ではない」と語ったかもしれないが、女性天皇・女系継承を容認する皇室典範改正はほかならぬ日本政府および宮内庁が進めてきたことではないだろうか? してみれば、日本政府は「あんたたちには言われたくないよ」と抗弁しているだけであろう。欧米文化vs日本文化の図式ならともかく、男系派vs女系派の図式での「官民協力」はなり立ちようがない。葛城会長はその点を理解しているようで、「今回はいい意味で官と民とが協力し合えた」と但し書きをつけている。
第3に、「官民協力」というなら、むしろ今回も数多く参加している女系派の団体の存在についてこそ、指摘すべきであろう。彼らのいわば「閣外協力」が同委員会の勧告を尻押ししていることは間違いない。そして、政府・宮内庁による女帝・女系容認論を後押ししているのである。
◇3 天皇はreligion masterなのか?
さて、最後に指摘したいのは、「祭祀王」である。阿比留さんのエッセイには、葛城会長がそう説明したとしか書いていない。
それどころではない。葛城さんの「守る会」のサイトには、スピーチの動画が載っているが、その発言は産経の記事に引用されているのがすべてであり、「祭祀王」に関するそれ以上の説明は、私の探し方が悪いのか、検索しても見当たらない。
葛城会長が35秒間のスピーチで、「祭祀王(religion master)」と表現しているのを聞いて、私はアレっと思った。ふつうは、私の理解では、祭祀王はpriest kingであり、逆にreligion masterは宗教指導者である。葛城会長はなぜpriest kingと表現しなかったのか? もしかして天皇は宗教指導者だと本気でお考えなのだろうか?
葛城会長は、天皇をローマ教皇やイスラム聖職者、ダライ・ラマを「祭祀王」というカテゴリーで、同列に置いている。天皇が祭祀をなさるという一点に注目した結果であろう。たしかにローマ教皇以下はみな宗教指導者である。しかし天皇はそうではなかろう。
◇4 葦津珍彦の天皇論のレベルに戻った
ローマ教皇はカトリックの指導者であり、ダライ・ラマはチベット仏教の指導者である。カトリックにはカトリックの教義があり、聖職者がいて、教会組織があり、信徒たちがいる。チベット仏教もしかりだが、天皇の祭祀には教義はない。布教の概念すらない。それを宗教指導者と呼ぶべきなのか? 宗教と祭祀は同じなのか?
決定的に異なるのは、天皇が皇祖神ほか天神地祇をまつり、「国中平らかに、安らけく」と祈り、その祈りによって、国と民をひとつに統合するところにある。だからこそ祭祀王、祭り主なのである。国民統合の象徴なのである。特定の信仰に基づいて、特定の神をまつり、祈りを捧げるのではない。それを宗教指導者と呼べば、かえって誤解を生むのではないか? 憲法の政教分離主義と完全に対立し、反天皇主義者の思う壺となろう。オウンゴールである。
要するに、天皇とはいかなる「祭祀王」なのか、そこが問われるのである。
戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は、天皇は「万世一系の祭り主」だと説いた。しかし葦津とて、思索はそこで止まっている。そして葦津の天皇研究をもとに、男系派の議論のみならず、女系派の論理がそれぞれに組み立てられ、両者は対立したままである。
葛城会長の「祭祀王」スピーチはやっと葦津珍彦の天皇論のレベルに戻ったことを示すものだ。本格的な議論はこれからである。
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