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新帝はいかなる神と一体化するのですか?──「正論」12月号掲載、竹田恒泰大嘗祭論を批判する(2019年11月28日)


「正論」(令和元年)12月号に、「『大嘗祭』の意味を理解する」(12月号)と題する竹田恒泰さんのエッセイが掲載されました。残念ながら、保守派言論人の大嘗祭論としては物足りなさを強く感じました。「意味を理解する」前に、新帝が何をなさるのが大嘗祭なのか、理解の前提として必要とされる事実認識が中途半端に思えるからです。


竹田さんは、前回の御代替わりで話題になった、折口信夫流のオカルトチックで、非実証的な真床覆衾論を否定しています。天皇が神になるのではなく、天神地祇を拝し、直会なさるのが大嘗祭のあり方であることも指摘されています。いずれも正しい理解でしょう。

そのうえで、大嘗祭の「意味」について、竹田さんは、神人共食の儀礼によって、神と一体化し、即位が神に承認されることだと説明しておられます。竹田さんの文章では、天神地祇に新穀を捧げる神人共食の儀礼によって神と一体化し、承認を受けるということですが、それで意味が通じますか。


▽1 天神地祇と一体化する?



必要な事実のポイントは、祭神と神饌の2点。いかなる神に、何を捧げるのか、です。竹田さんの解説は論理が首尾一貫しないように思われます。

竹田さんの論理では、もし新帝が大嘗宮で皇祖天照大神をまつり、稲の新穀を供え、祈り、直会なさるというのなら、斎庭の稲穂の神勅に基づいて、皇祖神と一体化し、皇祖神の承認を受けるという意味に解され、納得もできそうです。

けれども、大嘗宮の儀はそういう儀礼ではありません。

まず祭神ですが、竹田さんご自身が書いておられるように、大嘗宮内陣に祀られるのは皇祖神ほか天神地祇であり、皇祖神のみではありません。そのことはすでに知られている過去の御告文を見れば明らかです。

もし皇祖神のみを祀るのであれば、祭場は賢所で十分であり、新嘗祭の神嘉殿も大嘗祭の大嘗宮も不要でしょう。逆に、皇祖神との一体化が大嘗祭の本義なら、天神地祇を祀る必要はありません。

平成の大嘗宮@大文社寺建築HP


つまり、大嘗宮を建て、皇祖神ほか天神地祇を祀るという大嘗祭の実態からすれば、竹田さんの主張なさる一体化と承認説には無理があります。

キリスト教会の典礼なら、葡萄酒とパンはキリストの血と肉であり、聖体拝領は文字通り神との一体化を意味しますが、天皇による神饌御親供と御直会はむしろ命の共有という意味ではないでしょうか。

明治に惜しくも廃されてしまった「サバの行事」は、竹田さんもご存知でしょう。歴代天皇は毎食ごとに、わがしろしめす国土に飢えたる民が1人あっても申し訳ないとの思し召しから、食膳からみずから一箸ずつ取り分け、衆生に捧げたと聞きます。民と命を共有してきたのが天皇です。


▽2 命の共有による国民統合



2つ目は、大嘗祭の神饌です。

竹田さんの今回のエッセイでは「神饌」としか書いてありませんが、『皇統保守』などを拝読すると、以前は、新嘗祭や大嘗祭は稲の祭りだと説明されています。日本人は「稲作民族」「米食民族」であることが強調されています。

しかし、以前、指摘したように、これは間違いです。

古来、粟を食し、粟を聖なる食物として供饌する民や神社の存在が知られています。正月に米の餅を食べない「餅なし正月」の民俗は全国各地に分布しています。日本列島は「稲作」「米食」一色ではありません。粟の民は粟の神に粟を捧げ、稲の民は稲の神に稲を供してきたのです。

例外は天皇です。

天皇が新嘗祭や大嘗祭で、神前に供し、直会なさるのは、米と粟の御飯(おんいい。強飯)と白酒・黒酒です。稲だけではありません。天皇だけが天神地祇に米と粟の新穀を捧げて祈りを重ねてきたのです。なぜなのか。

稲の民なら、稲の神のほかに粟の神を祀り、粟を捧げる必要はありません。粟の民も同様です。しかし国と民と1つに統合するお立場の天皇なら、稲の神、粟の神、あらゆる神に祈りを捧げる。そのためには米と粟の神饌が当然、必要でしょう。多神教を前提とする複合儀礼とならざるを得ないのです。

歴代天皇が即位の直後に大嘗祭を、毎年秋には新嘗祭を執り行ってこられたのは、「国中平らかに、安らけく」という祈りからです。皇祖神のみならず天神地祇に、米ならず粟の新穀を捧げるのは当然です。

大嘗祭のあとには節会が行われ、神と天皇と民の命の共有が図られ、国は1つに統合されるのです。天皇は古来、国民統合の象徴なのです。新嘗祭、大嘗祭は命の共有による国民統合の国家的儀礼なのです。

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