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先帝「テニスコートの恋」と眞子内親王「ICUの恋」との雲泥の差。変質した宮内庁(令和2年12月20日)


8年前、J-CASTニュースに「『テニスコートの恋』の真相」と題する、佐伯晋・元朝日新聞記者の記事が載った。佐伯さんは昭和6年生まれ、朝日新聞でお妃選びの取材を担当し、社会部長、取締役、専務を歴任。先月、老衰で亡くなったとの訃報が伝えられた。記事は「テニスコートの恋」の取材ノートが元になっている。「責任をもって調整、アレンジされた恋愛結婚だ」というのが佐伯さんの結論だ。


世間では、先帝陛下の御結婚が自由な恋愛の結果であるかのように信じられている。その現代の伝説はその後の皇族方の御結婚にも大きく影響を与えている。今上陛下も皇太弟殿下も民間人との恋愛結婚を選ばれた。そして眞子内親王殿下の御結婚をも左右することとなった。

しかし先帝陛下の御結婚は純粋な恋愛だったのか。疑り深い私はどうも腑に落ちない。たとえば御用邸のある葉山が舞台なら分かるが、軽井沢に御用邸はない。なぜテニスなのかも、これもよく分からない。そもそも当時の宮内庁が自由な恋愛を認めるはずもないと考えるのが常識的な見方というものだろう。

週刊朝日オンラインが昨年4月、先帝陛下と皇太后陛下のキューピッド役を務めたという織田和雄さんのインタビュー記事を載せた(聞き手は上田耕二記者)。織田さんの父・幹雄さんはオリンピック三段跳びの金メダリストで、朝日新聞に入社し、のちに早稲田大学教授ともなった。和雄さんは次男で、先帝陛下とは学習院時代からテニスを通じて交流があった。しかし記事にはなぜ軽井沢のテニスコートなのか、まったく説明がない。


けれども佐伯さんの回想を読んで、なるほどと思った。そしてますます現代の皇室がおいたわしく思われてならなくなった。藩屏による必要なお膳立ても調整も感じられないからである。浮かび上がってくるのは官僚の責任逃れと底知れぬ脱力感である。

▽1 恋愛説を国会で否定した宮内庁長官


佐伯さんの記事をもとに、出会いから御成婚までを時系列で振り返ってみたい。

1955年 お妃選びが本格化。旧華族中心に選考が進む
1957年8月 軽井沢テニスコートでの出会い。お膳立てではなく偶然だった。恋に落ちたわけでもない
9月 宮内庁首脳が聖心女子大などの女子大数校と複数の名門女子高校に、極秘で推薦依頼を開始。聖心の場合、推薦の筆頭が正田美智子さんだった。独自調査が始まり、民間に調査対象が広がった
10月 東京・調布で2回目のテニス。黒木従達・東宮侍従が美智子さんをお誘いするよう水を向けたのだった
1958年1月 旧華族のK嬢が選外に。松平信子・常磐会会長が今度は旧華族のH嬢を検討するよう提案
2月 皇太子殿下に黒木侍従が「正田さんを調べてみるよう小泉信三さんにお願いしたらどうですか」と助言か
同月 皇太子殿下が選考首脳の小泉信三の勧めで南麻布のテニスクラブに入会
3月 皇太子殿下の御学友の紹介で、美智子さんが同じテニスクラブに入会
3月3日 小泉邸で首脳会議。K嬢断念の正式決定とH嬢を調べることが決まる。小泉が美智子さんを候補とするよう提案し了承される
4月初旬 旧華族で候補だったH嬢が選考からはずれる
5月2日 宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議で、美智子さんへのお妃候補一本化がほぼ決まる
9月18日 黒木従達・東宮侍従が、美智子さんの実家の正田家へ皇太子さまによる求婚のご意思を伝える
10月26日 美智子さんが外遊から帰国
11月3日 正田家が箱根のホテルで家族会議
11月5日夜 黒木侍従を正田家に遣わし、誠意に満ちたお言葉を伝えさせる
11月12日 皇太子殿下が3時間半かけて秩父宮妃らに御説明
11月13日 正田家が小泉信三に正式に受諾を伝える
11月27日 皇室会議。御婚約発表
1959年2月6日 宇佐美長官が衆院内閣委員会で、「世上で一昨年あたりから軽井沢で恋愛が始まったというようなことが伝えられますが、その事実は全くございません」と「恋愛説」を否定
4月10日 御成婚。結婚の儀

▽2 守旧派を切り崩す切り札


宇佐美長官が国会で「軽井沢で恋愛が始まったという事実はまったくない」と恋愛説を完全否定しているにも関わらず、「テニスコートの恋」説が広まったのはなぜか。それは時代性と関わる。

昭和34年2月6日の衆院内閣委議事録@官報


佐伯さんの説明では、昭和30年ころといえば、皇族の恋愛結婚なんてそんなはしたないと考えられていたし、民間出身のお妃には否定的な考えが根強かった。女子学習院OGで組織される常磐会が隠然たる発言権を持っていて、宮内庁内にも人脈が根を張っていた。常磐会の会長は秩父宮雍仁親王妃勢津子殿下の母・松平信子さん(鍋島直大侯爵の四女。松平恒雄参院議長夫人)だった。

であればこそ、旧華族出身者がお妃選びの候補とされた。しかし新しい時代となり、経済的に困窮する旧華族もあり、拝辞する候補もいた。旧華族がリストから次々と消えていき、民間に候補者を探さざるを得なかった。

正田美智子さんが最有力候補として浮上したとき、選考首脳たちは事前に情報が漏れることを恐れた。大騒ぎになることは目に見えていた。そこで一計を案じ、常磐会の松平会長らが推す旧華族出身のK嬢の線で進んでいることを強調しつつ、黒木東宮侍従らは南麻布のテニスクラブを出会の場と定め、交際を深められるようお膳立てしたのだった。クラブは選考首脳・小泉信三邸のそばだった。

民間からのお輿入れを拒否する守旧派を打ち崩す切り札は、皇太子殿下が恋愛してくださることだった。選考首脳たちはそのためのお膳立てを極秘に重ねていった。最後は皇太子殿下が時間をかけて秩父宮妃を説得された。それだけ、民間人女性が皇室に入ることは敷居の高いことだったのである。

そこが現代とまったく違うところである。それなら現在はどうであろうか。

▽3 繰り返される傍観者の無責任


事実とは異なるはずの「テニスコートの恋」伝説が一般社会と同様に、皇室にもすっかり浸透してしまったかのようである。かつては「国家」と書いて「ミカド」と読んだ。「おおやけ」とは皇室を意味し、「天皇に私なし」とされたが、いまや天皇・皇族は私人化している。藩屏がいないからだ。

宮内庁はかつては陛下に仕える家族的組織だったというが、いまや他省庁出身者の寄せ集めで、皇族方の御結婚を親身になってアレンジしようとする幹部たちを見出すことは不可能だろう。隠然たる勢力を誇った常磐会も同様で、先帝御成婚の轍を踏むことはあり得ないのではないか。

そして「ICUの恋」事件が生まれたのであろう。西村泰彦宮内庁長官は「海の王子」側に「説明責任」を要求している。当然ではあるが、内定までに宮内庁が行ったであろう身辺調査が明らかに不十分だったことの「責任」は不問なのだろうか。3年前、山本信一郎長官は「立派な方」と会見で述べ、先帝陛下は御裁可になったと伝えられる。「海の王子」への要求は責任逃れではないのか。

私は傍観者の無責任を痛感する。内親王殿下の婚姻に深く心を痛めているのは、本来、口を挟むべき立場にない国民である。逆に皇室を支えるべき立場の長官らには責任観念が感じられない。

私が不快感を禁じ得ないのは、同様の無責任が繰り返されているからだ。

先帝陛下の御在位20年のころ、宮内庁は御公務御負担軽減策を実施したが、御公務の件数は減るどころか逆に増えた。文字通り激減したのは天皇第一のお務めと歴代が信じ、実践してこられた宮中祭祀のお出ましだった。宮内庁の御負担軽減策は見事に失敗したのに、誰も責任を取ろうとはしなかった。

それどころか御負担軽減には女性皇族が婚姻後も陛下の御公務を分担していただく必要があるという理屈で検討が始まったのが、いわゆる「女性宮家」創設だった。しかし歴史にない「女性宮家」創設は天皇の歴史を一変させる女系継承容認の隠れ蓑であるという疑いが晴れない。「ICUの恋」への国民の心配もそこにある。

言い出しっぺと目される元侍従長は旧伯爵家の出身で、曽祖父は宮内大臣を務めたらしいが、皇室の伝統と権威を守り抜こうというお考えはお持ちでないのだろうか。なぜ男系の絶えない制度を模索せず、逆に男系主義を破棄しようとするのか。宮内庁の変質をつくづく思う。






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