青森・古代北方稲作の謎──なぜ短期間に伝播したのか(「神社新報」平成8年8月12日)
(画像は垂柳遺跡)
あるときフィリピン・ルソン島出身の農業青年に、
「お国ではいつ田植えをするのか?」と聞いたことがある。キョトンとした顔で
「分からない」
と答えたのには、聞いた方が驚いた。農家の跡継ぎが田植え時を知らないはずはない。
よくよく話を聞いてみると、いつでも苗を植えることができるし、ときがくれば稔る。つまり年中、米が採れるのだという。
同じ稲作といっても、熱帯モンスーンのフィリピンと温帯に属する日本では、これほど違うものか、と思い知らされた。
古代、日本列島に伝わってきた稲作は、またたく間に北日本にまで広がった。
40年前(昭和31年)に発見された青森・垂柳(たれやなぎ)遺跡は弥生中期、2000年前の水田遺構である。北緯40度を越える寒冷地に、稲作が短期間に伝播したのは驚きだが、背後に何があったのか。
最北の水田跡を見ようと(平成8年)6月下旬、夜行列車で青函トンネルをくぐり、北海道から青森へと向かった。
▢ 定説を覆す「垂柳遺跡」の発見
▢ 無数の足跡は集落滅亡の痕跡
十和田湖から弘前に向かって走る国道102号線。津軽平野にひときわそびえ立つ岩木山が前方に見える。残雪を頂く秀峰は澄み切った初夏の空に映える。
黒石バイパスに乗って数キロ、弘南鉄道の高架橋を越え、すぐまたもうひとつの高架橋を渡ろうとすると、
「垂柳遺跡はこの橋の下にあります」
という小さな案内板が左肩に立っている。うっかりすると見過ごしてしまいそうな小さな案内板だ。
北限の水田遺構・垂柳遺跡はバイパスの高架下にひっそりと隠れている。科目で飾り気のない津軽人そのままである。
しかしその発見は当時、紛れもなく
「日本古代史研究上の革命的な発見」(東北学院大学・伊東信雄、青森県教育委員会発行『垂柳遺跡』序文)
であった。
垂柳遺跡は昭和31年に発見された。
津軽平野のほぼ中央に位置する田舎館村垂柳で耕地整理が行われたとき、大量の土器が出土したのだ。発見者は地元・猿賀中学校の工藤正教諭である。
工藤氏は社会科の教諭で、若いころから考古学に興味を持ち、放課後などは学校近くの遺跡で、生徒たちと土器や石器の収集に夢中になったという。
垂柳で土器が発見されて、さっそく収集が始まったが、素人の悲しさで整理に行き詰まる。そのとき出会ったのが、当時、東北大学教授だった伊東氏。
「籾あとのある土器はないか?」
との助言を受けてからまもなく、歴史的発見の幕が開く。
200粒以上の炭化米などの発見で、伊東氏は水田稲作の可能性を唱えたが、多くの考古学者は受け入れなかった。
それもそのはずで、当時の定説では群馬・高崎市の日高遺跡が弥生期の水田跡の北限とされていた。「化外(けがい)の地」と呼ばれ、蝦夷(えみし)の住む東北北部に、稲作が伝播するのは8世紀以降と考えられていたのだ。
その根拠は文献であった。
『日本書紀』に遣唐使が唐の高宗に謁見するくだりがある。斉明天皇5(659)年7月、遣唐使は男女2人の蝦夷を連れていた。
高宗が問う。
「蝦夷には何種類あるか?」
「3種類あります。遠いところの蝦夷を都加留(つがる、津軽)、次を麁(あら)蝦夷、いちばん近いものは熟(にぎ)蝦夷。ここにいるのは熟蝦夷です」
高宗がまた問う。
「五穀はあるのか?」
「ありません。肉を食べて暮らしています」
蝦夷は採集・狩猟による移動生活を送っているという固定観念は、最近まで長く尾を引いた。常識的に見て、半年も雪に閉ざされるような雪国で、古代、大規模な水田稲作が行われていることなど考えられない。
ところが、昭和56〜58年の発掘で、、弥生中期の水田跡が火山灰の下から姿を現し、畦畔や水口、水路までが出土したから驚いた。
1枚10平方メートル前後の水田が656枚、総面積3967平方メートル。東、西、南方向にさらに広がっているという。予想を超えた高度な稲作が大規模かつ長期に展開されていたらしい。
炭化米のほか稲の植物成分プラント・オパール、水田雑草なども検出されるに及んで、水田農耕は否定しがたい事実となった。
弘前大学の村越潔氏は、
「押っ取り刀で現場へ駆けつけて、ようやく顔を覗かせた水田跡を眼中にした再、驚きでしばし呆然とわが眼を疑った」(前掲書序文)
と書いている。
田んぼの真ん中にある、村の小さな歴史民俗資料館を訪ねた。
移設保存された4畳半ほどの水田遺構には、畦畔とともに弥生人の足跡がくっきりと刻まれている。大きさは12〜24センチ。想定される成人の身長は130〜160センチ。現代人に比べて小柄だったようだ。
印象的なのは、5本の指が扇のように広がっていることだ。「立ち構え」という前屈みの姿勢で、素足のまま機敏に歩いていたらしい(青森県立郷土館・市川金丸氏、前掲書所収論文)。
大地に食い込んだ指先や踵は2000年前のものとは思えない生々しさがある。体温のぬくもりや鼓動までが伝わってくるようだ。稲作を通じて民族の命がつながっているという実感と親しみが湧いてくる。
ところが、それほど感傷に浸ってばかりはいられないらしい。
なぜ数千という大量の足跡が崩れずに残ったのか?
市川氏は、大型台風の襲来で山崩れと未曾有の大洪水が引き起こされ、30センチを超える土砂が水田を襲い、村は壊滅、人々は移動を余儀なくされた、と推察している。
2000年を経て蘇った足跡は、弥生人集落の断末魔の痕跡だというのだ。
▢ 熱帯型と温帯型2系統の稲の
▢ 自然交雑で早生が生まれた!?
ついうっかり「弥生人」と書いてしまったが、垂柳で米作りにいそしんだ古代人は、どんな人々だったのだろう?
田舎館式土器という独特の文化を編み出したのは、はたして弥生人だったのか、それとも津軽蝦夷なのか?
戦後、北部九州や山口地方から出土した2000体を越える弥生人骨の特徴は、高顔と高身長である。推定身長は男性162・6センチ、女性151・3センチという。縄文人とは形質が異なるらしい(『弥生人の研究1』)。
しかし残念ながら、垂柳からは人骨は発見されていない。
津軽では8月のねぶた囃子がやむと秋風が吹き、11月には初雪が降る。夏は短く、冬は長い。そんな北国で、古代人はなぜ熱帯の作物を栽培しようとしたのか。また栽培できたのか?
気候が現代より温暖だったともいわれるが、稲作技術が発達した現代ならいざ知らず、簡単に米が作り得たとは思われない。
宮崎大学の藤原宏志氏は、
「弥生時代の気候が現在と大差ないとすれば、当時の稲作期間もおおむね5月下旬〜10月中旬だったと考えられる。すなわち、イネの立毛期間(播種〜刈り取り収穫までの期間)は約150日しかなく、現在の品種より以上に極早生(ごくわせ)でなければ栽培できない」(前掲書所収論文)とする。
そこで俄然、注目されるのは、国立遺伝学研究所の佐藤洋一郎氏が平成2年、雑誌「考古学と自然科学」(第22号)に発表した、「日本におけるイネの起源と伝播に関する一考察──遺伝学の立場から」なる論文である。
①日本の稲は遺伝学的に均一ではない。従って単一の祖先から派生したとは考えられない。“雑種弱性遺伝子”地理的分布から、中国大陸と熱帯島嶼地域にそれぞれ由来する温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの2つの伝来経路があると考えた方がよい。
②北日本に分布する早生品種は北進の過程で突然変異が繰り返し起こって成立したと考えられてきたが、それでは急速な北進を説明できない。むしろ熱帯型と温帯型の2系統の稲が日本列島で自然交雑を起こして早生が生まれたと考えた方が説明しやすい。
論文の骨子は以上の2点である。
突然変異が起こる確率は10万分の1の低さだが、自然交雑の確率は1%といわれる。熱帯型も温帯型も本来は晩生(おくて)だそうだが、晩生同士の自然交雑から早生が生まれるというのがじつに面白い。
佐藤氏は理論的解明だけではなくて、実県によっても証明している。
佐藤氏の南北二元説は稲の伝来の謎とその後の急速な展開を一挙に解明する画期的な仮説として、考古学者や文化人類学者の注目を浴びずにはおかなかったらしい。
そのうえ考古学者などから見向きもされなかった、柳田国男の南方説、いわゆる「海上の道」説が見直されることにもなった。
最初に東南アジア起源の熱帯ジャポニカが「海上の道」を通って日本列島に伝来する。畑作的あるいは水陸未分化の稲で、モチ種だったのではないか、と佐藤氏はいう。
現在ではオーストラリア以外の世界各地で広く栽培されるほど適応能力の高い米だから、南西日本から広範囲に広がっていっただろう。
やがて揚子江中・下流域に起源する温帯ジャポニカが伝わってくる。こちらはウルチ米で、水田耕作という技術的革新を伴っていた。
水田耕作は連作障害が起きない利点があり、増収にも結びついた。大がかりな土木工事は必要だが、規模拡大が容易になり、定住化が進んだであろう。
水稲を畑で栽培することはできないが、陸稲は水田でも栽培できる。もし畑作的な米作がすでに日本列島に広範囲に広がっていたとしたら、その基礎のうえに水稲栽培が短期間に北進することは十分可能なはずだ。
収量が増えるとなればなおのことで、早生の発生は一層の拍車をかけることになっただろう。
実際、垂柳ではどのような米が栽培されていたのだろうか?
藤原氏は、プラント・オパール分析の結果、垂柳の米はジャポニカで、対馬・多久頭魂(たくずたま)神社の赤米に近いと書いている(前掲書所収論文)。
あらためて聞いてみると、
「温帯型と熱帯型とが混じっている。古代人には品種という考え方はなく、遺伝的に多様な稲が栽培されていた」
という答えが返ってきた。ますます面白いではないか。
▢ 自動車文明がもたらした発見を
▢ 車社会の進展が日陰に追いやる
資料館で「弥生の酒」を見つけた。化粧箱に、現代技術で弥生時代の米を再現したとある。
炭化米からDNAを取り出して、というのなら、まるで映画「ジェラシック・パーク」だ。これはぜひとも呑まなければならない。
黒石に戻り、醸造元を訪ねて1本、買い求めた。すっきりとした味わいは古代のロマンを感じさせる。
原料は「赤もろ」。「もろ」は米という意味らしい。芒(のげ)が長い赤米で、モチ種だという。耐冷性があり、津軽地方ではつい最近までどこの田んぼでも水口で栽培された。数年前(平成5年)の冷害の年も、赤もろだけは平年並みに稔ったそうだ。
田舎館小学校では11年前(昭和60年)から、「弥生の稲作」を授業に組み入れている。6年生約40人が手製の貫頭衣を着て、田おこしや田植え、稲刈りに挑む。手にマメを作ったり、泥だらけになったり、子供たちの歓声が響く。
農家の子弟とはいっても、最近は機械化が進んで農作業の経験がほとんどない。最大の楽しみは秋の餅つき大会だという。
他方、村の「垂柳遺跡を学ぶ会」が10年前(昭和61年)から高架下で続けてきた稲作は今年(平成8年)限りで幕を閉じ、会も解散されるようだ。
昭和56年の発掘はバイパス建設工事がきっかけだった。水田跡の発見は路線計画変更を実現させ、約2アールの水田と竪穴式住居を復元させた。
ところが、
「道路拡張で4車線になれば、田んぼは完全に橋下に隠れ、稲は作れなくなる」(「学ぶ会」代表・工藤兼太郎氏)らしい。
現代の自動車文明によって奇しくも日の目を見た古代の稲作が、やはり車社会の進展によって日陰に追いやられるのは皮肉というほかはない。(注=参考文献の執筆者の肩書きなどは発行当時)