皇室の品位は何処へ──内親王殿下「駆け落ち婚」を黙過する現代宮内官僚たちの憲法観(令和3年9月5日、日曜日)
眞子内親王殿下が「駆け落ち婚」をなさるという話題で持ちきりだ。「愛」を貫き通す女性の強さにあらためて驚かされる一方で、皇室の品位を保つために周囲の努力がどこまでなされたのか、疑いが晴れない。宮内庁の責任は大きいはずなのに。
「駆け落ち婚」の可能性は、すでに昨年の皇太弟殿下のお誕生日会見で示されていた。殿下は「結婚することを認める」と明言されていた。
一般の国民であれば、結婚は自由である。殿下が引用されたように、憲法には「婚姻は両性の合意によってのみ成立」するからである。しかし内親王の婚姻は民間人の婚姻とはまったく異なる。皇室および国の権威に関わるからである。「本当に素晴らしい男性」では済まない。
しかしそれを強く言えば、皇太弟殿下ご自身の「学習院の恋」にも疑問符が付く。であればこそ、父君はよほど悩まれたに違いない。おいたわしい限りである。
▽1 身辺調査は十分だったのか
以前、書いたように、古くは皇族女子は皇族に嫁するのが常例だった。時代が下がるにつれ、婚家の対象は拡大し、内親王が臣家に嫁する例が開かれたものの、江戸末期まで10数例を数える内親王降嫁はほとんどが摂関家と徳川家に限られた。明治の皇室典範は「皇族の婚嫁は同族、または勅旨によりとくに認許せられたる華族に限る」と制限を明確にしている。
一般の民間人と結婚することなどあり得なかったが、戦後は制限が失われ、先帝も今上も皇太弟も民間に婚家を求められた。そして清子内親王も眞子内親王もである。とりわけ先帝陛下の「テニスコートの恋」は自由な恋愛結婚の先駆けとなり、「開かれた皇室」の象徴ともなった。そして自由への憧れはますます強まっているかに見える。
だが、早計である。軽井沢の最初の出会いこそ偶然だったとはいえ、その後は側近によってアレンジされていたことが分かっている。当時の宮内庁長官は「恋愛説」を国会で否定している。そこが今回とはまるで異なる。「ICUの恋」の場合、側近たちの関わりがまるで見えてこない。
世間を騒がすことになった原因はそこにある。警備を担当する皇宮警察は何をしていたのだろうか。やがて天皇となる皇太子の結婚と、いずれ皇籍を離脱する内親王の違いがあるにしてもである。宮内庁はどの程度、身辺調査したのだろうか。あるいは、調査らしいことはしなかったということなのか。いずれにしても責任は重い。
▽2 皇祖神へのご挨拶はどうなるのか
先帝陛下のころは、「公事か私事か」が国会でしばしば議論された。野党は憲法を盾に「私事」説を訴えた。しかし「公事」なればこそ、国家予算が投じられ、宮中三殿での結婚の儀ほかが「国の儀式」(天皇の国事行為)とされた。
しかしいまは完全に違う。内親王の婚姻はもはや「公事」ではなく、「私事」と考えられているものらしい。昨年暮れ、西村宮内庁長官が介入し、「説明責任を果たすべき」と発言したのは、逆に異例なのだろう。それだけ側近たちの姿勢が「テニスコート」時代とは一変したのである。
今回は、一時金が辞退されるだけではなく、納采の儀(結納)も行われないと伝えられる。だから「駆け落ち」と称されるのだが、忘れてはならないもっとも重要なことは、皇祖神へのご挨拶がなされないらしいことである。
内親王の結婚の儀は、天皇や皇太子、親王とは異なり、そもそも賢所大前では行われない。それでも納采の儀ののち、告期の儀、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、内親王入第の儀と続くことがが皇室親族令附式に規定されている。結婚の礼の前に、内親王は賢所皇霊殿神殿に謁することとされているのだ。それがどうやら行われないらしい。
古代律令には、天皇の兄弟および皇子が「親王」とされ、皇女もまた同様に「内親王」とされると定められ、皇祖神のご神意次第によっては皇位の継承もあり得るお立場だった。時代が変わったとはいえ、皇祖神へのご挨拶なしに済まされるものなのかどうか。「およそ禁中の作法は神事を先にす」(「禁秘抄」)が皇室のしきたりのはずなのにである。
といって、宮中祭祀は「宗教」だという観念、および憲法の政教分離主義にとらわれた現在の官僚たちには、何の助言もできないだろう。皇太弟殿下がますますおいたわしく思われる。