日本の聖地から特定宗教に成り下がった神社──空知太神社訴訟判決が意味すること(2010年4月5日)
お知らせです。
4月17日(土)午後2時から、日本武道館で「外国人地方参政権に反対する1万名大会」が開かれますので、ご参加ください。
前に書いたように、民主党の小沢幹事長は、永住外国人に地方参政権が与えられれば、日韓併合の歴史に起因するわだかまりも解け、帰化も促進され、共生の道が開かれる、と主張しています。しかし、話はまったく逆であって、以前から帰化は促進されています。法案は「わだかまり」を超えて帰化する人たちより、「わだかまり」をいだいて帰化したくない人たちを優遇するものです。矛盾しています。
海外に子どもがいる在日外国人にまで支給するという「子ども手当て」も同様です。政策の優先順位が完全に誤っています。多くの国民が長引く経済不況で苦しんでいます。自国民の生活と暮らしを守ることを政府は最優先の課題にすべきです。
「1万人大会」の詳細は国民フォーラムのブログをご覧ください。
http://k-forum.iza.ne.jp/blog/entry/1491835/
さて、このところ当メルマガは空知太(そらちぶと)神社訴訟最高裁判決の批判をもっぱら書き続けています。それは日本の歴史と文明を揺るがしかねない、その根幹に関わる大問題だと考えるからです。
判決後、全国紙がそろって社説に取り上げるほど、一時的にマスコミの話題になった違憲判決ですが、その後はすっかり忘れられています。先週の北海太郎さんのリポートにあったように、訴訟の舞台である北海道ですら、原告となったキリスト教勢力や革新勢力、被告とされた行政もみな沈黙しています。
けれども、私はけっして黙過されるべきではない、静観していればすむというものではない、と考えています。
▽1 パンドラの箱が開いた
うわさによると、北海道のある町では、この訴訟に関連する質問を議会で行った革新系議員が議会質問のあと、各方面から手ひどいお叱りを受けたそうです。
この町は大企業の組合活動が盛んな労働者の町です。私も朝の散歩で、「マル経」などといういまや死語に近い言葉が店舗の名前に使われているのを発見し、驚いたことがあります。そういう革新系の強い町ですら、地元の祭りが大切にされているのが北海道という土地柄です。
戦後の国家管理の廃止で、全国各地の多くの神社が国有境内地の払い下げを受けたのに対して、この制度変革に洩れてしまった空知太神社と同様のケースが、北海道では数千にもおよびます。神社は地域共同体の心のよりどころと思えばこそでしょう。
空知太神社の3000坪の旧境内地が市の学校用地拡張に提供されたのも、いまの境内地が公有地にあるのも、本州以南では失われかけている「ムラの鎮守」、共同体の聖地という考えが強く生きているからなのだと私は思います。ここでは神社はけっして特定集団の特定宗教ではないのです。
とくに空知太神社は砂川市発祥の地の神社です。上川、十勝地方の開拓者たちは鉄道の終着駅があった同社に参拝し、成功を祈願したといいます。しかし原告らは、市に対して、無償で土地を提供することをやめ、神社施設・土地の明け渡しを請求すべきだと主張しています。そして最高裁は市の行為は違憲と判決しました。
歴史の短い分、北海道の人々は村々の信仰の歴史をむしろ大切にしてきました。そのシンボルが公有地内にある神社であり、毎年行われる祭りです。しかしそのことの価値が理解できない人たちがいる。そして訴訟が起き、違憲判決が示されたのです。
ハンドラの箱が開いたのです。
▽2 宣教師も布教の概念もない
最高裁判決(多数意見)は、空知太神社の鳥居や祠が神社神道のための施設であり、行われている行事は宗教的行事だと理解しています。氏子集団が行う宗教的行為に、つまり特定の宗教に市が特別の便宜を与え、援助している。公機関と宗教との関わり合いが相当とされる限度を超えている。したがって憲法の政教分離原則に違反する、という論理です。
しかし、空知太神社や同様に公有地内にある神社の存在やそのお祭りが、国民の信教の自由を制度的に保障するという憲法の政教分離原則の本質をおかしたといえるのかどうか。
空知太神社には自然崇拝、伊勢信仰、産土(うぶすな)信仰が同居しています。特定の宗教というには多様な信仰が共存しています。しかも神社にはキリスト教のような宣教師もいないし、布教の概念すらありません。
「あなたには私のほかに神があってはならない」と教える一神教信仰ならば、特定宗教への援助・助長・促進がただちに他の宗教への圧迫・干渉となり得ますが、日本の宗教伝統では必ずしもそうはなりません。
先だって、ある宗教団体の広報誌のインタビューを受けました。会祖様が100年以上前に生誕になった聖地で、天皇の祈りを中心とする日本の多神教的・多宗教的文明についてお話しさせていただきました。
私にとって興味深いのは、この宗教団体が「超宗派」をかかげていることでした。入会しても、それぞれの家の宗旨を変えたり、位牌(いはい)を改めたりする必要はない、と教えています。宗教の求めるところは究極において1つであるから、一宗一派の教義や形式にとらわれるべきではないという考えです。
各人の信仰を大切にしたうえでの宗教的共存がこの団体の出発点なのです。
▽3 一神教化している日本人
けれども、唯一神を信仰し、正義は1つであると考える一神教世界ではこうはいきません。
以前、世界第二位のイスラム国家であるバングラデシュの孤児院に対する援助活動に関わっていたとき、入国に際してイミグレーションカードの宗教欄に記入を求められたのを思い出します。イスラム、ヒンドゥー、キリスト教などと記載があって、どれか1つを選ばなければなりません。自分の宗教を日ごろ自覚しない多くの日本人にとっては面食らってしまいます。
バングラでは宗教が違えばコミュニティも異なり、日常あいさつの言葉も異なります。それぞれに孤児院がありますが、交流はありません。孤児支援という同じ目的を持ちながら、代表者が会うことも話をすることもないのです。ところが日本人が行って呼びかけると、彼らが違和感なく集まり、食事をともにすることができます。日本人の宗教的寛容性は、無節操というより、むしろ他に例のない長所です。
しかしいまや日本人自身が、祖先たちから継承されてきた多神教的・多宗教的文明の価値を見失い、考え方において一神教化しています。空知太神社訴訟の原告しかり、被告とされた行政もしかり、司法の頂点に立つ最高裁判事も、判決を報道するマスコミも同様です。
日本人の聖地であり、日本の多神教的、多宗教的文明のシンボルであったはずの神社がなぜ一神教と同レベルの特定集団の特定宗教と考えられるようになってしまったのか、を歴史的に見きわめつつ、多神教的・多宗教的文明の価値を再認識することがいま求められるのだと私は考えています。
こうして空知太神社訴訟最高裁判決について延々と考察しているのも、佐藤雉鳴さんの連載「『教育勅語』異聞」を掲載しているのもそのためです。
国民の信教の自由を確保しようとする政教分離訴訟によって、逆に、古来守られてきた多宗教共存の文明が破壊されようとしているのは、あまりにもバカげています。北海道民の心のなかに多神教的精神が生き続けていることが、残された救いです。
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