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現代史的追及が甘い「女性宮家」反対派の論理──政府が皇室の歴史と伝統を顧みないのはなぜか?(2012年7月8日)


▽1 またしても皇位継承論に終始したヒアリング

 先週の木曜日、6回目となる「皇室制度に関する有識者ヒアリング」、いわゆる「女性宮家」有識者ヒアリングが行われ、さっそく当日の配付資料(レジュメ)が官邸のサイトに掲載されました。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/yushikisha.html

 資料を見るかぎり、じつに興味深いことに、出席した所功京都産業大学名誉教授(モラロジー研究所教授。賛成派)も、八木秀次高崎経済大学教授(反対派)も、皇位継承論に終始しています。

 政府は最初から「今回の検討は緊急性の高い皇室の御活動の維持と女性皇族の問題に絞り、皇位継承問題とは切り離して行う」と断っています。それにもかかわらず、です。

 八木教授などは、打ち合わせの段階で、担当者である内閣官房の皇室典範改正準備室長から「皇位継承とは切り離す」ことなどについて、念押しされたことを明らかにしています。教授は室長の実名まであげています。

 それでも徹頭徹尾、皇位継承論が語られたようです。なぜなのか?

 それは八木教授がレジュメに書いているように、「本当に切り離せるのか?」という疑問が大いにあるからでしょう。

 今回は、お二方のヒアリングについて書きたいところなのですが、いまのところまだ議事録が公表されていないので、慎重を期して、つぎの機会に回したいと思います。

 今日は以前から気になっていることを書きたいと思います。それは4月に有識者ヒアリングで意見発表された、反対派の中心人物の1人でもある、百地章日大教授の反対論の中味です。

 あらかじめお断りしておきますが、私はなんら悪意をもつものではありません。むしろ逆に、私にとって先生は個人的な恩義のある、大切な方です。けれども学問的な探究は別であり、まして皇室に関することは国家の基本に関わることであって、個人的な感情を差し挟むべきではないだろうと思い、蛮勇をふるって、書こうと思います。


▽2 なぜいま「女性宮家」創設なのか

 何が気になるのか、というと、現代史的視点と追及不足について、です。

 先月のメルマガで、市村眞一京大名誉教授のヒアリングとともに、中味を検証したとき、私はお二方には、なぜいま「女性宮家」なのか、という現代史的な視点と追及が見当たらない、と指摘しました。

 百地教授の場合も、所名誉教授や八木教授と同様、ほとんど徹底して皇位継承論をお話しされました。百地教授の論点は、(1)「女性宮家」創設論への疑問、(2)憲法第2条「皇位の世襲」について、(3)陛下の御公務御負担軽減論について、(4)元皇族の皇籍復帰について、の4点でした。

 とくに、「女性宮家」創設論については、(1)古代からの「宮家」の歴史からいって、「女性宮家」は意味をなさず、歴史上、存在しない、(2)「制度設計」上、問題点がある、(3)「女系天皇」に道をひらく危険性がある、(4)国民に馴染みのない「民間成年男子」が皇室に入ることに最大の問題がある、(5)「女性宮家」創設は「陛下のご意向」とも報道されるが本当か、(6)渡邉允前侍従長は皇位継承問題を「次世代への先送り」論を述べているが疑問がある、と6つの疑問点を指摘しています。

 まったく仰せの通りで、「宮家」とは「皇位継承権者を確保し、皇統の危機に備えるもの」であって、「女性宮家」は歴史的な「宮家」の概念から逸脱しています。

 けれども、おそらくそのようなことは、政府内の「女性宮家」提唱者たちは百も承知のことに違いありません。にもかかわらず、なぜいま「女性宮家」創設論が浮上してきたのか、が追究(追及)されるべきでしょうし、その視点と追究が、百地先生には、先生だけではありませんが、どうも不足しているようなのです。

 当メルマガは、(1)平成8年ごろから政府部内で始まった皇室典範改正の非公式検討では、女性天皇容認と「女性宮家」創設が「2つの柱」とされたこと、(2)典範改正の作業が有識者会議の公式検討段階に入ると、「女性宮家」の表現は消えたものの、女性皇族が婚姻後も皇室にとどまるという中味は生きていたこと、(3)昨秋来、急激に浮上した「女性宮家」創設は、ほとんど同じ顔ぶれで十数年、議論されてきたことの延長線上にあること、などを明らかにしてきました。

 考えてもみてください。女性天皇・女系継承を容認するのであれば、女性皇族がご結婚後も皇室にとどまる必要があるのは、当然です。女性天皇・女系継承を容認する新たな天皇制度のもとでの「皇統の備え」なのです。

 百地教授は、125代に及ぶ皇室の歴史に、「女性宮家」が概念上も、実態としてもない、意味をなさないと指摘するのですが、現行憲法を原点とする新たな皇室制度上での議論なら成立します。であるからこそ、政府は「皇室制度に関するヒアリング」を設置したのであり、百地教授もヒアリングをお受けになったはずです。

 つまり、125代の皇室史全体を見渡し、それとは異なる方向を向こうとしている、戦後の皇室行政史の流れを見定める視点と追及がなければ、今回の「女性宮家」創設問題の本質が見えてこないのではないでしょうか?


▽3 羽毛田長官は要請していない

 ところが、失礼ながら、百地教授にはそのような視点が欠落しているように見えます。いや、本当にそうなんでしょうか? たまたまこのヒアリングでは割愛されたということではないのでしょうか?

 限られた資料から、簡単に断定するわけにはいきませんので、ほかに考える材料を探してみます。

 ひとつは、今年3月2日に産経新聞の「正論欄」に掲載された、「男系重視と矛盾する『女性宮家』」と題する百地教授の一文です。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120302/imp12030203170001-n1.htm

 この文章には、渡邉前侍従長の皇統問題「棚上げ」論の危険性を指摘しているなど、今回のヒアリングで述べられたエッセンスが見いだせます。

 注目されるのは、百地教授が、「問題の発端は、羽毛田信吾宮内庁長官が野田首相に対して、陛下のご公務の負担軽減のためとして、『女性宮家』の創設を要請したことにある」と断定していることです。

 羽毛田長官が野田首相に「女性宮家」創設を要請した、という理解は、昨年11月25日の「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」という読売新聞の「スクープ」に基づくものでしょうが、たぶん事実関係に誤りがあるでしょう? もともとメディアの報道ですから、「……と伝えられる」という表現なら、まだしもなのですが、百地教授は言い切ってしまっています。

 当メルマガで指摘してきたように、「週刊朝日」昨年12月30日号の岩井克己記者の記事で、「羽毛田信吾長官は……女性宮家創設を提案したと報じられた。また一部で『これは天皇陛下の意向』とも取り沙汰されている。いずれも羽毛田長官は強く否定している」のでした。

 それから3カ月後も経ったあとのエッセイで、「発端は、羽毛田長官が野田首相に要請したことにある」と断定したことは、いま目の前で進行している歴史の事実に対する視点はともかくも、追究もしくは追及の甘さをうかがわせるのです。

 いや、そんなはずはない、と根っから疑い深い私は、先生の名著『政教分離とは何か──争点の解明』(成文堂、1997年[平成9年]12月)をひもといてみることにしました。


▽4 戦後史の変遷を見過ごしている

 百地教授は、とくに「第十章 憲法と大嘗祭」(初出は阿部輝哉教授還暦記念『人権の現代的諸相』有斐閣、平成2年)で、「憲法問題を中心」に、精緻な議論を展開しています。大嘗祭をめぐる従来の違憲論・合憲論、そして政府解釈を紹介し、大嘗祭国事説の当否を検討しています。いかにも憲法学者らしいといわずにはいられません。

 政府見解について、百地教授は、(1)昭和21年、第91帝国議会での金森国務大臣の答弁、(2)昭和54年4月17日の真田内閣法制局長官の答弁、(3)昭和59年の前田内閣法制局長第一部長の答弁、などを例に挙げ、大嘗祭を天皇の国事行為として実施することに否定的態度をとり続けてきた、と指摘しています。

 その核心部分は政教分離問題であることはいうまでもないのですが、百地教授に決定的に欠けているのは、戦後史の変遷に対する理解です。政教分離に関する憲法解釈・運用の考えは占領前期と後期では異なるし、昭和40~50年代に激変したという歴史的な事実が見えてきません。

 たとえば、金森長官が「皇位継承に伴って、種々なる儀式が行わせられる(ことになるが)、改正憲法におきましては、宗教上の意義をもった事柄は、国の儀式とはいたさないことになっております」と答弁していると解説されていますが、その一方で、皇室典範改正案に大嘗祭についての記述がないことについて聞かれた金森大臣は、信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたと答弁しています。つまり、大嘗祭の挙行が不適当だと考えられたわけではないのでした。

 当時は占領期です。「祭祀は天皇の私事」とするGHQの解釈に従わざるを得なかったのです。けれども、それであっても、昭和22(1947)年5月、日本国憲法が施行されたのに伴い、戦前の皇室令が「廃止」されましたが、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による依命通牒、いまでいう審議官通達で、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とされました

 であればこそ、歴代天皇が第一のお務めと信じ、実践されてきた宮中祭祀の伝統は続いてきたのです。占領後期の26年6月、貞明皇后の御大喪は、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しています。国費を使い、宗教的に葬儀を行うことは憲法に抵触しない、と占領軍は述べたと宮内庁高官が証言しています。


▽5 依命通牒の破棄をなぜ追及しないのか?

 ところが、昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議で依命通牒(第3項)は、厳格な政教分離主義を背景に、側近たちの一方的な判断で破棄されてしまいました。憲法解釈は占領期より後退したのです。戦後、一貫して「否定的態度」だったのではなく、このとき激変したのです。そのため、毎朝御代拝など宮中祭祀の中味が大きく改変されました。

 宮内庁のサイトを見れば、天皇の祭祀は「両陛下の祭祀」となり、陛下の行幸は「両陛下のご活動」に大きく概念が変えられていることが見えてきます。基準は近代的な男女平等論でしょうか? 「皇室のご活動」維持を目的とする「女性宮家」創設論も、「行動する」国家君主という近代主義が見え隠れしています。

 依命通牒に記された、基準とすべき「従前の例」が反故にされた以上、125代にわたる皇室の長い歴史と伝統に代わって、新たな基準がなければなりません。

 根本的基準はむろん憲法です。御代替わりの進め方について参考人に意見を求め、小泉内閣時代に皇位継承安定化のために有識者会議を設置し、そしていま「女性宮家」創設のために有識者のヒアリングを行うのは、皇室の伝統ではなく、憲法の国民主権に基づいています。皇族方の意見に耳を傾ける手法は採られません。憲法は「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と定め、政府は今回のヒアリングで、「象徴天皇制度のもとで」と強調しています。

 百地教授は、戦後の皇室史のエポックとなった依命通牒の破棄について、憲法学者として、なぜ追究(追及)なさらないのでしょうか?

 百地教授が『政教分離とは何か』が世に出たのは平成9年の暮れです。依命通牒の破棄が記録された『入江相政日記』(平成2~3年)はすでに公刊され、御代替わりに関する『平成大礼記録』(平成6年)など4冊の公的記録も公になっていたはずです。

 まさか知らないわけではないでしょうに。

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