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伊万里で発見された幕末の種痘記録──全国に先駆けて導入(平成19年2月12日月曜日)

(画像は直正公嗣子淳一郎君種痘之図。佐賀県立佐賀城本丸歴史館HPから拝借しました。ありがとうございます)


 先週5日の佐賀新聞に

「幕末の種痘記録を発見、伊万里の旧家から」

 という記事が載りました。
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&blockId=323921&newsMode=article

 佐賀藩が全国に先駆けて種痘(しゅとう)を導入していたことを記録する幕末の日記が、伊万里市内の旧家から発見された、というのです。

 記事には、種痘は1849(嘉永2)年に藩主鍋島直正が長男に接種させ、成功したのを機に、全国に広がった。今回、見つかった日記には、1854(嘉永7)年4月、引痘方の医師と村の医師ら5人で村の子供たちに種痘を実施した。2年後には130人に実施し、庄屋らの要請でさらに80人に追加接種している、などとあり、藩が地域の医師を巻き込んで、組織的に種痘を推進したことが明らかになった、と解説されています。

◇長崎への伝来より早く

 種痘は、イギリスのジェンナーが見出したことで知られる、疱瘡(ほうそう、天然痘)の予防接種法です。疱瘡は今でこそ地球上から撲滅されましたが、はしかやコレラと並んで人類がもっとも恐れるウイルス性の伝染病でした。多くの場合、通過儀礼のように幼児期に罹患し、死亡率はじつに5割、運良く助かっても、あばたと呼ばれる穴ぼこのような跡が顔などに残りました。

 ジェンナーが種痘(牛痘法)を公表したのは1798年、これがオランダを経由して、長崎にもたらされたのが嘉永2年のことでした。今回の発見で、すでにこの年、佐賀県で実施されたことが分かったことになります。

 しかしこの年、蘭学の禁止令が出されます。種痘は出鼻をくじかれました。

 ところが、オランダ商館医師から佐賀藩医、大阪の緒方洪庵などに種痘の種が伝えられ、蘭方医のネットワークでまたたく間に全国に広まったといわれます。種痘の成功は蘭学医普及の突破口でした。ときあたかも将軍家定が重病で、幕府ははじめて蘭方内科をもちい、そして蘭方医が解禁されることになったのでした。

 各地に種痘所が開設され、安政5年(1858)には江戸・お玉が池に種痘所が設けられました。万延元年(1860)、幕府は

「種痘所で種痘を受けよ」

 とお触れを出します。最初は民間施設だった種痘所は幕府の直轄となり、やがて種痘所は現在の東京大学医学部へと発展します。種痘の導入は日本の近代医学のスタートでした。


◇伊万里より早い蝦夷地

 以上が日本の牛痘接種法の、いわば本流の歴史で、じつはもう一つの歴史があります。伊万里の種痘実施にさかのぼること25年、蝦夷地(北海道)で日本初の牛痘接種が行われています。

 択捉島の番人だった中川五郎治がロシア人に拉致され、オホーツクに連行されたのは文化4年(1807)。5年間のシベリア流転生活の末、牛痘法に関するロシア語の書籍2冊を持ち帰り、文政7年(1824)までに江差・松前で種痘を実施したといわれます。当時、北海道では疱瘡が大流行していたのでした。

 話のついでに、お隣の韓国はどうでしょう。韓国に種痘法をはじめて導入したのは池錫永という人物で、韓国の教科書にはその功績が大きく取り上げられていますが、韓国での種痘普及は日本とはまったく正反対で、苦難の連続でした。

 日本から種痘法を学んだ池錫永は「親日」の汚名を着せられ、捕縛され、流刑の身にまでなっています。それでも屈せず、今日では韓国近代医学の父と称えられるまでになったのですが、詳細はまたの機会にお話しします。

 最後になりましたが、佐賀新聞に載った新発見の日記は今月23日まで佐賀大学の地域学歴史文化研究センターで展示されているそうです。

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