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キリスト教的な「立儲令」はどのようにして生まれたのか?──『帝室制度史』を読む 後編(令和2年4月1日)


▽1 戦前を無批判に肯定するのか、そうでないのか


今回の御代替わりを方向付けた皇室典範特例法が成立したのは3年前の平成29年6月9日でした。その翌日が戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦先生の没後25年の命日で、ごく親しい門人10人ほどが墓前に集まり、故人を偲びました。お詣りのあとの直会の席で、日本会議の中心的人物が披露した思い出話が、耳にこびり付いて離れません。

日本会議の中枢には生長の家出身の活動家が少なくないようです。その人もその1人で、ン十年前の学生のころ、鎌倉の先生宅を数人で訪ねました。そのとき先生は、戦前を無批判に肯定するのか、そうでないのか、はっきりしなさいと迫ったらしいのです。

葦津先生といえば、戦後の神社本庁創立や剣璽御動座復古、靖国神社国家護持運動などを主導した民族派の重鎮ですから、戦前を手放しで肯定し、戦前に回帰することを主張していると思い込む人もいます。かく言う私もそうでした。しかし、じつは違います。青年期に東條内閣の統制政策と真っ向から対決し、朝鮮独立運動家の呂運亨を支援していたとあれば、単純な戦前礼賛とはひと味もふた味も違って当然です。


葦津先生との会談のあと、生長の家の学生グループは戦前礼賛派と非礼賛派とに分裂したと日本会議のメンバーは先生のありし日を懐かしみ、苦笑いしていました。

日本の近代化は「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」(王政復古の大号令)をスローガンに始まりましたが、復古より、むしろ欧化主義が社会を席巻しました。伝統主義と近代主義が複雑に絡まりながら進んできたのが日本近代史の真相でしょう。その結末が敗戦だとしても、単純に白だ黒だと決め付けることはできません。

近代の皇室制度改革もその例に漏れることはないでしょう。前回も取り上げた明治42年の立儲令は、古来、紫宸殿前庭で行われていた立皇太子儀の伝統を踏襲するものではなく、逆に古式を打破し、宮中三殿の神事に一変させたのです。神道儀礼=伝統ではありません。

立儲令@国会図書館



▽2 神事からの解放は意外や伝統回帰?

前置きはそのぐらいにして、前回に引き続き、『帝室制度史 第4巻』第二章第四節第一款「皇嗣の冊立」を読み進めます。


前回は、古来、皇嗣の冊立において天皇が詔し、天下に宣示されたのが、立儲令では賢所での勅語に変わり、いまは皇嗣の「宣明」に変更されていることなどを指摘しました。『帝室制度史』は具体的な儀礼の中身を説明します。


『帝室制度史第4巻』から


「皇太子冊立の儀礼については、貞観儀式には、『立皇太子儀』としてその次第を記せり。その儀は紫宸殿の前庭においてこれをおこなひ、親王以下百官参列し、宣命大夫をして宣命を宣せしめたまふ。
立太子の宣命は『天皇詔旨勅命を(スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲ)、親王(キミタチ)、諸臣(オミタチ)、百官人等(モモツツカサノヒトタチ)、天下公民衆聞食止宣(アメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル)、随法爾可有伎政止志氐(ノリノママニアルベキマツリゴトトシテ)、其親王立而皇太子止定賜布(ソレノミコヲタテテヒツギノミコトサダメタマフ)、故此之状悟天(カレカクノサマサトリテ)、百官人等仕奉礼止詔天皇勅命乎(モモノツカサノヒトタチツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲ)、衆聞食止宣(モロモロキコシメサヘトノル)』とあり、この宣命の儀は永く踏襲せられて、近世に至るまで皇嗣冊立の儀典の中枢をなせり。
立太子の当日、または後日ならずして、東宮奉仕の職員を補任し、また拝観、節会のことあり、日を隔てて立太子の由を山陵に告げたまふ」

貞観儀式の定めに従い、近世まで続いた慣習は、紫宸殿前庭で宣命大夫に宣命を代読させるというものでしたが、立儲令では場所は賢所に変わり、内陣で天皇が御告文を奏され、そのあと外陣で勅語を述べられ、皇太子に御剣が授けられました。

今回の「宣明の儀」では、宮殿で天皇の「おことば」に続いて皇嗣の「おことば」、さらに総理大臣の寿詞が続くことになっています。神事からの解放は意外にも伝統回帰ともいえます。また、山陵への奉幣は日を隔てず、同じ日に行われます。


宮内庁「立皇嗣宣明の儀の次第概要等について」から(令和2年1月21日式典委員会決定)

「中世以後、皇太子には壺切の御剣を授けたまふ。壺切の御剣は、はじめ藤原基経の家に伝へ、基経これを宇多天皇に献じ、天皇これを当時皇太子に在しし、醍醐天皇に授けたまひ、醍醐天皇は延喜4年2月、皇子明親親王を立てて皇太子となしたまふにあたり、これを授けたまひしに始まり、爾来歴代皇太子の冊立にあたり、護身の御剣として、これを授けたまふの例をなし、もって今日に及べり」

上のコピーの続き


御剣の授与は立儲令では大前の儀と一体で、勅語のあと授けられましたが、今回は宣明の儀とは切り離され、引き続いて独立の儀式として、皇室行事として行われます。


▽3 古例が近代化で一変



このあと『帝室制度史』は、南北朝以降、儀式が300年間断絶したこと、天皇在位中の皇太子冊立という常例がときに破られた歴史などを解説したあと、最後に明治の改革についてまとめています。

『帝室制度史第4巻』から


「皇室典範の制定せららるに及び、新たに皇位継承の順位を一定したまふとともに、『儲嗣たる皇子を皇太子とす。皇太子あらざるときは儲嗣たる皇孫を皇太孫とす』と規定し、また皇太子、皇太孫を立つるときは、当日詔書をもってこれを公布したまふことを定め、立太子、立太孫の礼については、中古以来の皇太子冊立の儀を参酌し、立儲令により詳細にこれを定めたまへり。これにより皇嗣に関する上代以来の制度は、くさぐさの点において重要なる変革ありたり」

『帝室制度史』の編纂は錚々たる知識人が関与していたようですが、彼らは明治の皇室典範制定によって古来の制度が近代化し、一変したことをはっきりと認識しています。具体的には……。

『帝室制度史第4巻』から


「その諸点をあぐれば、旧制においては、皇嗣は冊立によりはじめて定まりしに対し、新制においては、皇嗣は冊立によらず、法定の順位に従い当然に定まること、その1なり」

変革の第一は近代法が継承の基準となったことです。

「旧制においては、皇太子の称は皇嗣の冊立によりはじめて授けられしに対し、新制においては、儲子たる皇子は生まれながら皇太子と称したまふこと、その2なり」

今回は生まれながらということではありませんが、秋篠宮は立皇嗣の礼を前にしてすでに「皇嗣」と呼ばれています。

「旧制においては、皇太子の称は必ずしも皇子に限らざりしに対し、新制においては、皇太子の称はもっぱら儲嗣たる皇子にかぎり、皇孫(皇曾孫、皇玄孫などまた同じ)の儲嗣たる場合は、とくに皇太孫と称し、皇兄弟その他の皇族の儲嗣たる場合は、特別の名称を用ひざること、その3なり」


▽4 近代化とは何だったのかを解くカギ



「旧制においては、立太子の儀は、これによりはじめて皇嗣たる身位を定むるものなりしに対し、新制においては、立太子または立太孫の礼は、すでに皇太子または皇太孫たる皇子または皇孫の皇嗣たる地位に在すことを天下に宣示し祖宗に奉告したまふ儀礼にして、傍系の皇族の皇嗣たる地位に座す場合は、この儀礼を行はせられざること、その4なり」

古来は親王以下百官を前に、天皇が詔して皇太子を冊立することだったのに対して、近代においては法的にすでに皇太子の地位にあることを内外に示し、かつ皇祖に奉告する儀礼に変わったというのが『帝室制度史』の理解ですが、2つの機能をさして広くもない「賢所大前の儀」に押し込めることになったのはなぜでしょうか。

もしかして、欧米列強に対抗する目的で、ウエストミンスター寺院での戴冠式などヨーロッパの王室儀礼に倣った欧化主義ということでしょうか。伝統的というより、むしろキリスト教的な立儲令の諸儀礼はどのようにして生まれたのか。それこそ近代化とは何だったのかを解く鍵がそこから見えてくるはずですが、手がかりとなる資料は残念ながらいま手元にはありません。

エリザベス女王の戴冠式@イギリス王室HP

それなら戦後のスタイルは何に由来するのか。日本古来の伝統を引き継ぐのなら、大前での親告の儀と宮殿での宣明の儀とを分ける戦後の二分方式の方が伝統にかなっているようにも見えます。しかし、両者を政教分離原則によって「皇室行事」と「国の行事」に色分けし、さらに宣明の儀と御剣親授を分離させるのは古来の伝統ではなく、明治の欧化主義に似た、一神教世界由来の政教分離主義でした。

皇室の儀礼は近代以後、一貫して、一神教世界からの暴風に曝され、弄ばれ続けているように私には見えます。


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