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島薗東大大学院教授の3つのご指摘に答える──第1回 教育勅語の「中外」を「国の内外」と解釈するのは無理がある by 佐藤雉鳴(平成22年8月12日)


前回は、畏友・佐藤雉鳴氏の教育勅語論「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」に対する島薗進・東大大学院教授の批判を掲載しました。

 今号からは、3回にわたり、佐藤さんの反論を載せます(斎藤吉久)。


◇1 起草者の意図を示す確実な文献があれば


 島薗進・東大大学院教授から教育勅語と国家神道に関する拙論に関し、丁寧な3つのご指摘をいただきました。島薗教授ならびに当メール・マガジン発行者で天皇学研究所の斎藤吉久所長に対し、深く感謝申し上げます。

 そのうえで、ご指摘の3点についてコメントしたいと思います。それがご多忙のなか、拙論に目を通し、ご批判くださったことへの礼儀だと考えるからです。

 今回はご指摘の第一点、教育勅語の冒頭にある「中外」の語が、「宮廷の内外」という意味だけなのか、という指摘に対して、反論します。

 島薗教授の近著『国家神道と日本人』(岩波新書)は、第一章4「宗教史から見た帝国憲法と教育勅語」に教育勅語の解説が述べられています。


「国家神道とは何かを知る上で教育勅語がもつ意義は、いくら強調しても強調しすぎることはない」(P38)

 GHQのスタッフは教育勅語を国家神道の「聖典」と断定しましたから、おっしゃるとおりだと思います。そのうえで教授は「中外」を含む文章を次のように解説されています。

(之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ)
「しかし、他方、それは日本という限定された範囲を超え、普遍性をもつものだ、とも主張されている」(P38)

 教育勅語は公開文書ですから、解釈は読み手に委(ゆだ)ねられます。解釈は原則として自由です。しかし私のテーマは、起草者の意図と解説書の解釈との違い、そしてそれがもたらした甚大な影響の追求です。

 私は文献資料から「中外」を解釈しました。したがってこれを否定する起草者の確実な文献資料等が示されれば、再検討しなければなりません。

◇2 明治以前の詔勅では「宮廷の内外」の意味がほとんど


 島薗教授から、明治天皇の詔勅では「中外」が大部分「国の内外」の意で用いられており、教育勅語の「中外」を「宮廷の内外」とするのは無理があるのではないか、とのご指摘がありました。そのことについて、補足させていただきたいと思います。

 拙著『国家神道は生きている』において、「中外」には主要な2つの用例があることを述べました(P124)。「宮廷の内外」と「国の内外」です。


 「中外」に「宮廷の内外」の意があることは、現在ではあまり知られていないので、拙著では少なくとも「国の内外」だけではないことを示しておきました。

 そこで、この機会に明治天皇以前の詔勅から「中外」を「宮廷の内外」「朝廷と民間」として用いた例をあげてみます。

 『みことのり』(平成7年錦正社版)から以下に引用します。


第857詔
仁明天皇承和2年『皇子を臣籍に降下せしめ給ふの勅』
「宜しく中外に告げて、咸(ことごと)く聞知せしむべし」

第870詔
同承和5年『皇太子恒貞親王の御元服に際して下されし詔』
「承和四年以往言上の租税の未納なるものは、咸(みな)免除に従へ。普(あまね)く中外に告げて、此の意を知らしめよ」

第1210詔
仁孝天皇天保15年『皇太子統仁親王御元服の詔』
「高年八十以上及び鰥寡(かんか=妻のない男と夫のない女)孤独にして自存すること能はざる者には、数を量りて物を給へ。普く中外に告げて、此の意を知らしめよ」

 これらの「中外」は数々の詔勅にある、「普く遐邇(かじ)に告げて」の「遐邇(遠い所と近い所)」と同じ意味であり、文脈から「宮廷の内外」「中央と地方」、転じて「全国(民)」です。内政に関することであり、外国は関係がありません。

第1247詔
孝明天皇安政3年『藤原尚忠に万機を関白せしめ給ふの詔』
「良相朝に升(のぼ)れば、則ち陰陽自ら其の燮理(しょうり)に適ひ、元臣事を立つれば、則ち中外遍(あまね)く其の調和を被る」
(良き宰相が朝廷に昇れば、即ち対立するものはやわらいで整い、優れた臣下が事をなせば、即ち朝廷と民間はあまねく調和する)

 この「中外」は文脈から「朝廷と民間」と解釈して妥当です。「国の内外」では意味が通じません。

 じつは、明治天皇以前の詔勅では「中外」は「宮廷の内外」の意で用いられているものがほとんどです。「中外」が「国の内外」の意味で用いられはじめたのは、明治になって諸外国との関係が深くなってから、と考えてもよいほどです。

◇3 明治前半期における要人たちの「中外」


 教育勅語渙発(かんぱつ)までの間に書かれたもので、宮中近くにいた要人たちの文章から「中外」を読んでみます。

「十二月二十九日同僚相議して、曰(いわく)勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是(これ)誠に天下の幸、速(すみやか)に中外に公布せられ施教の方鍼(ほうしん)を定めらるべしと」(『元田永孚文書』第一巻P176)


 明治11年8月30日から同年11月9日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮(えいりょ)あらせられました。侍補たちは明年政始の時に「勤倹の詔」が渙発されることを岩倉右大臣に懇請しました。上はその時の文章です。

 あくまで国内の民政教育についてです。「速に中外に公布」は「すみやかに全国(民)に公表して知らせる」です。これは教育勅語の「中外」と同じ用法であり、どう読んでも外国は関係がありません。

「大臣の奉勅対署は大臣担当の権と責任の義を中外に表示する者なり」(稲田正次『明治憲法成立史 下』P55)


 井上毅(いのうえこわし)による、いわゆる憲法の初稿説明にある文章です。法律と勅令に関する大臣の副署についての説明であり、大臣の副署のないものは詔命としての効力はないというものです。その副署は大臣の権と責任を「宮廷の内外」「全国」に表示するもの、と解釈して妥当です。文脈からこの「中外」を「国の内外」と解釈する根拠がありません。

「而(しか)して其一策たる、聖上還御の前に当て間を請ふて天皇に謁見し、憲法制定の今日に止むべからざる所以を具状し、更に内閣外に就て憲法制定論の賛成者を求め、中外の声援に依て其制定の議を断行する、是れ也。(中略)即ち在廷官吏の鏘々(金へんに将。そうそう)たるもの及び在野負望の士にして其影嚮(えいきょう)を内閣の議に及ぼすに足るべきものを求むるを謂ふ也。(中略)是を以て今我党に於て朝野の賛成者を求むるの策最も之が巧妙を尽し、厳に後患を予備せざるを得ず」(『小野梓全集』第三巻P144)


 大隈重信とともに立憲改進党を組織し、東京専門学校(早稲田大学の前身)を創設した小野梓の「若我自当(もしわれみずからあたらば)」(明治14年)にある文章です。文脈から「中外の声援」と「朝野の賛成者」は整合しますから、「中外」は「朝廷と民間」です。

 小野梓には「勤王論」もあって、幕府について語っているところでは「中外皆な関東の人士を以て之を制し」(同P186)と記しています。「中外」は「中央と地方」つまり「全国」です。外国はイメージされていません。

 また「今政十宜」では藤原氏や平氏その他の特定少数者による政治の専有を批判し、「聖上登祚(とうそ)ましませし以来屢々(しばしば)明詔を垂させ給ひ中外の衆庶に詔示し給ひ、衆庶も夫の明詔に薫陶せられ深く其切なるを感銘したるものなれば、……」(同P160)と記しています。「中外の衆庶」は「全国の人々」と解釈して妥当です。

 明治20年8月12日付の板垣退助による上書にも「中外」が用いられています。

「また伊藤に対しては、総理大臣宮内の長官を兼ね陛下の威福を藉(かり)りて中外に号令し専恣(せんし)の欲を遂げ一人の利をなさんとす」(稲田正次『明治憲法成立史 下』P484)

 伊藤博文はどちらも初代の総理大臣でありかつ宮内大臣でした。府中と宮中の長だから、「中外に号令し」は「宮廷の内外」に「号令し」です。もし「中外」が「日本と外国」とすると、少なくとも「外国に号令」はあり得ませんから、この解釈は成立しません。

◇4 「国の内外」と解釈する明確な根拠はあるか


 私の調査では、起草者の井上毅と元田永孚(もとだながさね)の教育勅語に関する資料に「中外」を「国の内外」とするものは見つけられませんでした。また「樹徳(徳を樹[た]つる)」が五倫五常の「徳目の樹立」であるとすることの根拠も見つけられませんでした。

 これまで教育勅語の解釈に言及した研究者たちは、以下の2つの文章を読み誤ったと断定しても過言ではないと思います。

「五倫と生理との関係」(『井上毅伝』史料篇第三)
「勅語衍義-井上毅修正本」(『國學院大學日本文化研究所紀要99』は解説付)

 これらは非常に誤解されやすい文章ですが、平成20年3月、國學院大學日本文化研究所から『井上毅伝』史料篇補遺第二が出版されました。詳細は省きますが、この中に「倫理ト生理学トノ関係」(「梧陰文庫B―三〇二五」)及び「梧陰文庫!)―四五九」が公開されて、誤解は解消されることとなりました。

 教育勅語に関心のある方々に、教育勅語の「中外」を「国の内外」とする明確な根拠があればぜひ教えていただきたいと思います。なお起草者の意図ですから、井上毅と元田永孚らの資料に限ることはいうまでもありません。

◇5 「中外」の解釈に批判がなかった理由


 島薗教授からは、「井上哲次郎を初めとして、多くの人々が「国中と国外」と「解釈し、それが正面から批判されてこなかったという歴史的事実がある」とのご指摘もありました。

 ご指摘のとおり、批判がなかったことは確かに歴史的事実です。大正初め、市村光恵法学博士は上杉慎吉を批判してこう語りました。

「唯勅語なるが故に完全無欠なりと唱えて、勅語の神聖を主張せむとするものあるに似たり(中略)勅語の導きは独り夫れが勅語たるの点にのみ止まらず、又実に其の内容が、之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖(もと)らざるに因る」(大正ニュース事典)

 当時、勅語だから(=天皇のお言葉だから)正しい、との言説のあったことが分かります。

 またその後の教育勅語の解説者たちは、唯一天覧に供し、官定解釈とも公定註釈書ともいわれた井上哲次郎著・芳川顕正叙・中村正直閲『勅語衍義(えんぎ)』を妄信したに過ぎないと思います。

 のちの研究者たちが奉戴(ほうたい)したのは、明治大帝の教育勅語よりも、この『勅語衍義』だといっても過言ではないと思います。現在の人々が国民道徳協会の口語訳文を無批判に奉戴していることと同じです。

 加えて勅語渙発記念講演等において、金子堅太郎や杉浦重剛らが「中外」を「国の内外」と広めましたから、批判の生ずる余地はなかったのかもしれません。

 昭和14年に一度だけ訂正の機会がありました。しかし議論は権威におもねる和辻哲郎によって封殺されたことが記録に残っています(『続・現代史資料9』P399)。

 実際のところは終戦まで、誤った解釈でも問題は生じませんでした。そして戦後は日本国憲法において、詔勅は効力を有さないとされました。以後今日まで、「成立史」の研究はあるものの、教育勅語の「解釈」については先行研究をなぞるのみで、新たな知見は発表されませんでした。

 元田永孚は明治24年、井上毅は同28年に他界しましたから、教育勅語のその後については知る由もありません。明治天皇は「勅語衍義稿本」にご不満であり(『明治天皇紀』巻七P807)、井上毅は否定的でした。

◇6 日本人の誤った解釈を鵜呑みにしたGHQ


 GHQは「之を中外に施して悖らず」が世界征服の表現だと見なしました(神谷美恵子著作集9『遍歴』P233、『続・現代史資料10』P276ドノヴァンの覚書)。日本人の解釈を鵜呑みにして、「国の内外」としたのです。

 教育勅語の「之」=「斯の道」が「徳目」から「肇国(ちょうこく)の理想」へと変遷し、それを「四海に宣布」=「中外に施して悖らず」だったのですから、GHQがいうのも無理はありません。

 井上毅は帝国憲法第28条(信教の自由)に抵触しないよう慎重でした。そこで元田永孚への書簡に、「斯道也の下、実に、の一字不可欠」と記しました。

 「斯の道」が哲理や信念ではなく、歴史事実であることから「実に」に固執し、「中外に施して悖らず」(全国(民)に示して道理に反しない)という草案にした、と考えて妥当ではないでしょうか。

 井上毅は教育勅語の草案を金子堅太郎に見せ、「君だけは憲法制定の頃から一緒にやってきたのだから」(『教育勅語の由来と海外における感化』P13)と相談しました。

 教育勅語が政事命令と受け取られないか、憲法に抵触しないかどうかと訊(き)いたのです。しかし金子堅太郎は教育勅語の徳目がキリスト教の教義に悖らないかどうか、の相談だと誤解しました。

 それが証拠に、井上毅や元田永孚に教育勅語の徳目とキリスト教の教義を比較検討した資料はありません。

 島薗教授は拙論に対して、「中外」は「朝廷の内外」の意味だけか、と指摘されました。「中外」には「国の内外」と「宮廷の内外」の2つの意味があり、もちろん前者と解釈すべき用例もあります。けれども、教育勅語に関しては、教授がおっしゃるように「宮廷の内外」と解釈することに無理があるのではなく、「国の内外」と解釈することこそ無理なのです。


☆斎藤吉久注 筆者の了解を得て、ネット読者の便宜を考慮し、見出しを付け、改行を増やすなど適宜、編集を加えています。

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