見出し画像

政府は何を根拠に「翌日即位」を決めたのか?──皇室典範も特例法も「直ちに即位」なのに(2017年12月11日)

(画像は総理官邸。同HPから拝借しました)


 先週金曜日(平成29年12月8日)の閣議で、陛下が再来年(平成31年)4月30日に退位(譲位)されることが決まりました。メディアは、翌日、皇太子殿下が即位される日程が正式に決まったとも伝えていますが、なぜ「退位の翌日に即位」なのか、そのように決めた根拠は何なのか、いうところの「即位」とは何を意味するのか、私にはまったく理解できません。

平成29年12月8日の閣議および閣僚懇談会閣議議事録から〈https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11547454/www.kantei.go.jp/jp/content/291208gijiroku.pdf〉



▽1 「翌日即位」を会見で明言した官房長官


 今月(平成29年12月)1日に皇室会議が開かれたのは、陛下の「退位等」について定める、いわゆる退位特例法に定めがあるからです。特例法施行の期日、すなわち退位日を政令で定めるに当たっては、「内閣総理大臣は、あらかじめ、皇室会議の意見を聞かなければならない」とされているからです。

 そして、「特例法の施行日」を議案とした皇室会議で、「平成31年4月30日とすべきである」との意見がまとめられ、これを受けて8日の定例閣議で退位の期日が決定されました。

平成29年12月1日の皇室会議議事概要から
〈https://www.kunaicho.go.jp/news/pdf/koshitsukaigi.pdf〉

菅官房長官は閣議後の会見で、「特例法の施行期日を定める政令を閣議決定した」「陛下の御退位と皇太子殿下の御即位がつつがなく行われるよう、最善を尽くす」と述べました。

平成29年12月8日の閣議後の官房長官記者会見

 ここまでは「翌日即位」はありませんが、記者の質問を受けて、菅長官は、「翌5月1日に皇太子殿下が御即位されることになった」「こうした内容を総理から閣僚懇談会の中で発言をされた」と述べたのでした。

 また、改元については、元号法は「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」と規定しているので、皇太子殿下の御即位後に速やかに改元は行われるという観点から、5月1日を軸に検討したい、と述べています。改元に関する初めての言及と伝えられます。

 どうやら「翌日即位」「翌日改元」は、特例法でも、皇室会議でもなくて、政府自身が決めたことのようですが、なぜそうするのか、政府として説明が不足していないでしょうか。菅長官の説明は法的根拠があるかのようにも聞こえますが、皇室典範も特例法も「翌日即位」を定めているわけではありません。


▽2 皇室典範も特例法も「空位」を認めていない


 むしろ法は「翌日即位」ではなく「即日即位」を定めていると解釈されます。退位の「翌日」に即位なら、1日の空位を認めることになると考えられるからです。

 明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚(皇位継承)し」と定め、現行典範もまた「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定めています。「すなわち」「直ちに」は空位を一時たりとも認めないことを明文化したものでしょう。

 いわゆる退位特例法も同様で、「天皇は、この法律の施行の日かぎり、退位し、皇嗣が直ちに即位する」とされています。

特例法条文
〈https://www.kantei.go.jp/jp/headline/taii_tokurei.html〉


 皇室典範も特例法も「直ちに即位」と定めているのに、なぜ政府は「翌日即位」と決めたのでしょうか。政府はいかなる法的基準に基づいて、これを決めたのか。政府のいう「即位」とは何でしょうか。

 まして新元号は、「直ちに改元」と定められているわけではないのに、なぜ「速やかに」なのでしょう。

 この20年、政府・宮内庁は、女帝容認ならいざ知らず、過去の歴史にない女系継承容認=「女性宮家」創設に道を開き、今回は特例法で「上皇」という略称を正式な法律用語と定めるなど、国民主権主義に基づく日本国憲法下での象徴天皇制はもはや何でもありの観があります。

 空位を認めないのは、むろん皇室のルールといえます。

 200年前の光格天皇の場合は、文化14(1816)年3月22日、皇太子恵仁親王(仁孝天皇)に譲位されました。清涼殿で受禅され、剣璽渡御が行われました。こうして践祚(皇位継承)すなわち御代替わりが行われたのです。

 仁孝天皇の即位の礼は9月21日、光格天皇の譲位から半年後でした。文政への改元は翌年4月で、大嘗祭はこの年に行われました。


▽3 政権交代したら何が起きるのか


 報道では、陛下が退位(譲位)される再来年の秋に即位の礼、大嘗祭(大嘗宮の儀)が行われるとも伝えられますが、皇室の伝統に則り、法に基づいて、4月30日に「退位(譲位)ののち、直ちに即位(践祚)」とできない理由は何でしょうか。

 1つは践祚と即位の混同です。法律用語が消えたことによる歴史の喪失です。国民主権主義が招いた皇室の伝統の軽視です。

 平安期以来、事実としての践祚と内外に宣言する即位は区別され、践祚から日を隔てて即位式は行われてきました。その伝統に基づいて、明治の皇室典範は「天皇崩ずるときは皇嗣すなわち践祚」と定めていましたが、敗戦後の混乱は皇室典範改正、一般法律化に当たって、この区別を反映できず、「皇嗣が直ちに即位」としました。

 それでも、皇室典範改正時の帝国議会の議論を見ると、改正案に「践祚」という用語が用いられないことについて、金森徳次郎国務大臣は「践祚」の文字は消えても御代替わりの中身に変更はないと答弁しており、皇室行事の体系は不変と少なくとも当時は認識されていたようです。

昭和21年12月5日の帝国議会衆議院議事速記録@官報
〈https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/minutes/api/emp/v1/detailPDF/img/009113242X00619461205〉


 ところがその後、戦後政府は正常化への努力を怠り、ついに平成の御代替わりでは「践祚」の用語と概念が完全に喪失させられ、「践祚と即位は同意語」「皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた」(宮内庁『平成大礼記録』平成6年)との詭弁が弄され、「践祚後朝見の儀」は「即位後朝見の儀」と改められました。

令和の即位後朝見の儀@宮内庁
〈https://www.kunaicho.go.jp/odaigawari/sokuigotyokennogi-ph.html〉


 そしていま、安倍長期政権は125代続く皇室の伝統を回復できずにいます。

 保守政権下でさえ、政治主導によって、このようなハチャメチャが生じるのなら、皇室の歴史と伝統を一顧だにしないような政権へ交代した暁には、いったい何が起こるのでしょうか。鳩山内閣時のごり押し天皇会見程度では済まされない、と国民は覚悟しなければならないのでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?