「教育勅語」異聞 第2回 「しらす」が理解できなかった by 佐藤雉鳴(2010年4月2日)
◇1 歴史を重んじた起草7原則
教育勅語の草案作成にあたって、井上毅(こわし)が起草七原則ともいうべきものを山縣有朋(やまがた・ありとも)総理大臣に認(したた)めたことは前述したとおりである。その七項目はつぎのとおりである。
(1)君主は臣民の心の自由に干渉しない
(2)敬天尊神などの語を避ける
(3)哲学理論は反対論を呼ぶので避ける
(4)政事上の臭味を避ける
(5)漢学の口吻と洋学の気習とも吐露しない
(6)君主の訓戒は汪々として大海の水の如く
(7)ある宗旨が喜んだり、ある宗旨が怒ったりしないもの
非常に慎重な内容の原則であるが、「畏天敬神ノ心」を主張した元老院議官中村正直の草案を批判した井上毅の姿勢がよく表れている。そしてとくに(2)(3)(4)(5)(7) から恣意性の排除が見られ、いわゆる理論を避け、歴史事実に基づいたものにしたかったのではないか、と考えても間違いではないだろう。
教育勅語の成立過程を語る著作では、「朕(ちん)惟(おも)ふに我が皇祖皇宗……教育の淵源亦(また)実(じつ)に此に存す」の第一段落は草稿段階からさほど変化していないことがあげられている。
そして次の最初の部分が重要なところである。
「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇(はじ)むること宏遠に徳を樹(た)つること深厚なり」
◇2 人にはみな徳が備わっている
井上毅が「本居宣長はいかばかりの書をよみたりしか、彼人の著書をよむごとに敬服にたへず」と述べたことを、助手格の小中村義象が「梧陰存稿の奥に書きつく」に記している。その本居宣長の『直毘霊(なおびのみたま)』にはこんな文章がある。
「いはゆる仁義礼譲孝悌忠信のたぐひ、皆人の必ズあるべきわざなれば、あるべき限リは、教ヘをからざれども、おのづからよく知リてなすことなるに、かの聖人の道は、もと治まりがたき国を、しひてをさめむとして作れる物にて、人の必ズ有ルべきかぎりを過ギて、なほきびしく教へたてむとせる強事(シヒゴト)なれば、まことの道にかなはず」
また『くず花下つ巻』では、「礼儀忠孝の類(たぐい)、今は教ヘをまたずして、人々よくすることの如くなりぬるは、云々」という問いに対して、宣長は「異国聖人の道いまだ入リ来らざりし以前は、殊(こと)に礼儀忠孝の道も全(まった)くして、世はいとよく治まりし事は、難者はしらずや」と答えている。
つまり、仁義礼譲孝悌忠信などの徳目は人として当然備わっているもので、異国(支那)聖人の道が伝わる以前から我が国はよく治まっていたのだということである。
「礼儀忠孝等の類は、必(かならず)万人皆しらでは叶はぬ事」であるから「かの諸匠諸芸などの如く、その職の人のみ知て可(ヨ)きたぐひと、一つに心得あやまれるもの也」とも述べている。仁義礼譲孝悌忠信などは理論理屈で打ち立てるものではないということだろう。
◇3 「徳」とは儒教の徳目ではない
教育勅語が渙発された翌月の明治23(1890)年11月7日、陸羯南(くが・かつなん)の新聞「日本」は井上毅の「倫理と生理学との関係」を掲載した。重野安繹(やすつぐ)文学博士が帝国大学の勅語拝読会において、是を儒教主義と云ふも不可なかるべし、と語った後に次のような矛盾することを述べたことがきっかけである。
「抑(そもそも)儒教は支那に起り所謂(いわゆる)五倫五常の名目を設け、精微に其(その)道理を攻究し人事の儀則を立てたれば、我(わが)先皇之(これ)を採用し玉ひ二千年来其教を遂行せしに因り、一たび倫理の事に説き及べば皆儒教主義なりと人々心得るは本末を誤れりと謂はざるを得ず云々(うんぬん)」
重野安繹がこのような撞着(どうちゃく)矛盾の説をなすのは儒者であり且つ官吏(かんり)であるからか、と記者は結んでいる。そして新聞「日本」は「博学明識を以て朝野に勢力を有する某氏」である井上毅から「倫理と生理学との関係」を示され掲載に及んだのである。その内容は、倫理は儒教の占有物ではないというものであった。
「倫理は普通人類の当に講明す可(べ)き所にして、之を古今に通じ、之を中外に施して、遁(のが)れんと欲して遁るること能はず、避けんと欲して避くること能はざるものなり、誰か倫理を以て儒教一家の主義と云ふや……世人が倫理を以て、儒教主義の特産に帰せんとするを笑ふ者なり」
井上毅は前述の七原則にあるとおり、勅語に関する論争を避けるために草案作成と同時進行で、あらかじめこの「倫理と生理学との関係」を書きとめていたと思われる。「之を古今に通じ、之を中外に施して」という教育勅語の最後段の文言が用いられているからである。「梧陰存稿」には「五倫と生理との関係」としても収められている。
「故(ゆえ)に五倫は人とし人たるものの世に生活する為(ため)に必(かならず)履(ふ)み行ふべき道にして、古今に通じ中外に施して、遁れむとして遁るること能はず避けむとして避けること能はざるものなり、誰か五倫を儒教一家の主義といふか……世人が倫理を以て儒教主義の特産に帰し、己(おの)れは五倫の教の為に立つものの如く心得るを笑ふ者なり」
以上のことを考えると、「徳を樹つること深厚なり」の「徳」が儒教の徳目ではあり得ないことは明白である。重野安繹が「我先皇之を採用し玉ひ」といっても「皆人の必ずあるべきわざ」であるし、倫理は儒教の占有物ではないのである。また、皇祖皇宗が徳を樹てられたとしても、仁義礼譲孝悌忠信などというものではないことも同様である。それらは歴史の事実として存在しない。
◇4 「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」
井上毅「梧陰存稿」には「言霊(ことだま)」という文章があって、ここに重要な一節がある。
「故(ゆえ)に支那欧羅巴(ヨーロッパ)にては一人の豪傑(ごうけつ)ありて起こり、多くの土地を占領し、一(ひとつ)の政府を立てて支配したる征服の結果といふを以て国家の釈義となるべきも、御国(みくに)の天日嗣(あまつひつぎ)の大御業(おおみわざ)の源は、皇祖の御心の鏡もて天が下の民草をしろしめすといふ意義より成立たるものなり。かかれば御国の国家成立の原理は君民の約束にあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」
つまり、我が国の国家成立の原理は君民の約束ではなく、天皇の「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」という意義の君徳である。したがって、国家の始は君徳に基づくという一句は日本国家学開巻第一に説くべき定論であるということである。これはつぎの古伝承に関係がある。
「汝がうしはける葦原の中つ国は、吾が御子のしろしめさむ国と言(こと)よさし賜へり」(古事記)
大日本帝国憲法の起草者の一人であった井上毅は、国典研究のなかで、『古事記』のこの文言に大きく注目した。「うしはくといひ知らすといふ作用言の主格に玉と石との差めあるを見れば猶(なお)争うことのあるべきやは、若(も)し其の差別なかりせば此の一條の文章をば何と解釈し得べき」と強調しているのである。
「うしはくとしらす」については当サイトの「人間宣言異聞〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/ningensengen.html 〉」に子細を述べたところであるが、この「しろしめす」は天皇の統治姿勢を示す言葉とも言うべきものである。我が国の来歴を思い、伝統や慣習を重視する立場で憲法を考えていた井上毅は、この「しろしめす」という言葉への感動を「言霊」に書き残している。「しろしめす」は「私という事」のない天皇の統治姿勢を示すものであり、奄有(えんゆう)や占有に相対するものである。
「支那の人、西洋の人は、其の意味を了解することは出来ない、何となれば、支那の人、西洋の人には、国を知り、国を知らすといふことの意想が初より其の脳髄の中に存じないからである。是が私の申す、言霊の幸ふ御国のあらゆる国言葉の中に、珍しい、有難い価値あることを見出したと申す所のものである」
井上毅の憲法草案第一条は「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」であったといわれている。「しらす」にこれほど着目したのは本居宣長以来といっても過言ではないだろう。そしてそれは「かの、神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、神代の古伝説の、虚偽ならざることをも知べく、異国の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知べきなり」と述べた本居宣長『玉くしげ』と同じ心情だったと言えるのではないか。
◇5 古伝承そのままの国
そもそもいわゆる神勅というものは、我が国の在り様が詳細に決定されている、などとというものではない。
我が国の歴史をたどると、日本という国がまさに今日まで古伝承にあるとおりに顕現(けんげん)されていることに感動する、そういうことを本居宣長は言っているのである。だから「神代の正しき伝説(つたへごと)」(『直毘霊』)を思い、「幸にかかるめでたき御国に生(あ)れ」(『くづばな』)ることに感謝するのである。
井上毅の見出したものとほぼ同じである。
あらためて教育勅語の第一段落を読んでみる。
「朕惟ふに我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり」
「皇祖皇宗の徳沢深厚なるにあらざるよりは、安(いずくん)ぞ能(よ)く此の如く其れ盛なるを得んや」は井上毅の「勅語衍義(修正本)」である。この徳沢深厚の「徳」が五倫五常の「徳目」であるとする根拠は存在しない。そして皇祖皇宗がそれらの「徳目」を樹立せられたという根拠も存在しない。あるのは「国家の始は君徳に基づくという一句は日本国家学開巻第一に説くべき定論」とするものなどである。そしてその君徳とは「天皇の『皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす』という意義」の君徳である。
稲田正次『明治憲法成立史 下』には「初稿第一条の説明」というのが掲載されている。
「蓋(けだし)祖宗の国に於けるは其(その)君治の天賦を重んじ国民を愛撫するを以て心となし玉へり。謂(い)はゆる国を治(し)らすとは以て全国王土の義を明(あきらか)にせらるのみならず、又(また)君治の徳は国民を統治するに在(あり)て一人一家に亨奉するの私事に非(あら)ざることを示されたり。此れ亦(また)憲法各章の拠て以て其根本を取る所なり」
これは孫引きであるが、『憲法義解』にある第一条の解説もほぼ同様な文章である。これらの基礎が井上毅の筆になるものであることは明らかにされているところである。
「我が臣民克(よ)く忠に克く孝に億兆心を一(ひとつ)にして世世厥(そ)の美を済(な)せるは此れ我が国体の精華にして教育の淵源亦(また)実(じつ)に此に存す」
「徳を樹つること深厚なり」につづく文章である。井上毅はこの「我が臣民の一段は勅語即(すなわ)ち皇祖皇宗の対─股(むきあい)─文」と述べている。つまり、歴代天皇の「皇祖の御心の鏡もて天が下の民をしろしめす」という意義の有難い君徳、それに臣民が億兆心を一にして忠孝を実践してきたことが世世その美をなし、国体の精華となっているのであって、教育の淵源はまさしくここにあると述べられているのである。
◇6 いまも続く無理解
ところが、井上哲次郎『勅語衍義』には「しらす」「しろしめす」の解説はひとつもない。明治45(1912)年の『国民道徳概論』においても「しらす」の解説はない。井上哲次郎が「しらす」を熱心に語ったのは、『勅語衍義』から約30年後の大正8(1919)年、明治聖徳記念学会における講演である。
この「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「君徳=しらすという意義」に理解できなかった井上哲次郎『勅語衍義(えんぎ)』である。その稿本を天覧に供したとはいえ、天皇はご不満であり、井上毅は文部大臣として「小学校修身書検定不許」としている。
井上毅は本居宣長同様、古伝承にある「しろしめす」を発見して、「徳沢深厚」という意義を「徳を樹つること深厚なり」の草案に込めたのである。それを井上哲次郎は「何故なれば、国君の臣民を愛撫するは、慈善の心に出で、臣民の君夫に忠孝なるは、恩義を忘れざるに出づ。臣民にして恩義を忘れんか、禽獣に若かず。国君にして慈善の心なからんか、未だ其天職を尽したりと謂うべからず」と解説したのである。勅語の解説にふさわしくないことがよく分かる。
けれども明治期の教育勅語渙発から戦後の排除・失効にいたるまで、「徳を樹つること深厚なり」の「徳」をこの「しろしめす」という意義であるとはっきり認識した解説書は見当たらない。明治天皇と井上毅を除くと小中村義象が理解していたと思われるが、ここに触れた著作を目にしたことはない。また元田永孚についても同様であるが、元田は儒者であるから第二段落の徳目が明記されたことで満足だったと考えてもよいのではないか。
いずれにせよ現在でも、官定解釈あるいは公定註釈書といわれた『勅語衍義』の影響が大きいことは変わっていない。(つづく)
☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。
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