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伊勢雅臣さん、大嘗祭は水田稲作の農耕儀礼ですか?──国際派日本人養成講座の大嘗祭論に異議あり(2019年11月24日)

(画像は令和の大嘗宮)


 伊勢雅臣さんの「国際派日本人養成講座」は定評あるブログで、私もファンですが、11月17日の「大嘗祭」はいただけませんでした。思い込みに囚われ過ぎているからです。とはいえ、他人様の文章にいちいちケチをつけるのも大人気ないし、唇を噛んでおりました。

 しかし、渡部亮次郎・元NHK 記者主宰の人気メルマガ「頂門の一針」に転載されるに及んで、看過できなくなりました。というわけで、以下、押っ取り刀で批判させていただきます。

 ポイントは、(1)大嘗祭の「根っこ」は稲の収穫儀礼なのか、(2)稲作=水田耕作なのか、(3)大嘗祭は天孫降臨神話のみを根拠とすべきなのか、(4)大嘗祭の精神はアニミズムなのか、などでしょうか。


▽1 工藤隆名誉教授に依拠した必然


 具体的に検証します。

 まず、伊勢さんは、新嘗祭、大嘗祭を、「稲の収穫儀礼」と断定し、無批判に議論を進めています。最大の問題はこれです。

 当メルマガの読者なら常識でしょうが、神嘉殿の新嘗祭、大嘗宮の大嘗祭で天皇が神前に捧げ、直会されるのは米と粟の新穀です。伊勢さん自身、メルマガの後半で「米と粟」と明記する『国史大辞典』を引用しています。

 それなら、なぜ伊勢さんは「稲の収穫儀礼」として解説するのですか。一面的な議論に終わることは明らかでしょうに。大嘗祭の粟は付け足しなのですか。

 伊勢さんの論拠となっているのは、工藤隆・大東文化大学名誉教授の大嘗祭論でした。一昨年、発刊された著書は、新嘗祭、大嘗祭をアマテラスオオカミに新稲を捧げる祭りと決め付けています。しかも、工藤教授にとっては稲作=水田稲作です。焼畑の陸稲が無視されています。


 これに依拠する伊勢さんの大嘗祭論がねじ曲がっていくのは必定です。

 伊勢さんが引用しているように、工藤教授は水田稲作の源流を長江文明とし、そこから派生したマレー半島の稲作の収穫儀礼と大嘗祭との類似点を指摘します。「大嘗祭の重要な要素のほとんどすべてが揃っている」というわけです。

 しかし日本の稲の源流は1つではないことが分かっています。遺伝学者の佐藤洋一郎さんによると、東南アジア島嶼部を源流とする熱帯ジャポニカと長江中下流域から伝わった温帯ジャポニカとがあり、日本列島で両者が自然交雑し、日本の稲が生まれたというのが「南北二元説」です。早稲の出現で稲作は瞬く間に北進したのです。


 工藤教授が説明しているのは後者だけです。

 前者すなわち熱帯ジャポニカはいわゆる「海上の道」を通ってやってきたと考えられています。東南アジアと共通する踏耕(ホイトウ)は黒潮沿いの神社の祭礼に伝わり、伊勢神宮のお田植祭はその1つと指摘されています。

神宮神田


 熱帯ジャポニカは陸稲で、もち米といわれます。焼畑農耕文化です。大嘗祭の米は甑で蒸して調理されます。古くはもち米だったのでしょう。私はタイ北部の焼畑農耕地域で、もち稲の蒸し米を常食とする農家にお世話になったことがあります。ほっぺたが落ちるほど、美味しいご飯でした。

 工藤教授および伊勢さんは、大嘗宮の神座(寝座)にも言及し、天孫降臨神話について説明するのですが、神話学の知見では、天降り神話はユーラシア大陸全域に伝わっているようです。関連する穀物は日本以外はすべて麦であり、日本の天孫降臨神話は大陸の天降り神話と東南アジアの稲作神話との融合だと神話学者の大林太良さんは推理しています。

 天孫降臨神話は火の神との関連で伝わっており、焼畑農耕の伝承と想像されます。そういえば、神話の原郷である高千穂も霧島も、稲荷信仰の総本社である伏見稲荷大社もすべて山です。霧島はいまも火を噴いています。


▽2 真弓常忠教授も粟を無視


 伊勢さんは真弓常忠・皇學館大学教授の大嘗祭論も引用していますが、真弓教授にも粟は登場しません。むろん天孫降臨神話には粟は無関係です。


 伊勢さんのように、工藤教授や真弓教授も同様ですが、水田稲作や天孫降臨神話で新嘗祭や大嘗祭を説明しようとするところに限界があるのです。伊勢さんは、そして渡部亮次郎先生は、新嘗祭や大嘗祭の粟は何だとお考えですか。

 古来、粟を捧げる新嘗の祭りや神社が知られています。粟穂は、稲穂と同様、豊穣のシンボルであり、「粟穂に鶉」は絵画や彫刻の題材とされてきました。そうした日本の伝統的観念が宮中の祭祀とつながっていることは容易に想像されますが、無視されていいのでしょうか。

粟穂に鶉@静岡浅間神社


 何度も指摘してきたことですが、天孫降臨神話に基づいて、稲の新穀を皇祖神に捧げる祭りなら、祭儀は賢所で十分なのであり、神嘉殿も大嘗宮も不要でしょう。なぜ天皇は米と粟を捧げ、祈り、直会なさるのか、あらためて考えるべきではありませんか。

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