100万登録を超えたYouTuberは、幸せになれたのか?
はじめまして!
こんな誰が書いたかも分からないnoteを読んでいただきありがとうございます。
斉藤正直(さいとうまさなお)と申します。
タイトルにある通り、現在登録者数120万を超えるYouTubeチャンネルを運営しています。
今回は、100万登録越えのYouTuberになった私が「幸せになれたのか」について、過去を振り返りながらまとめてみました。
めちゃくちゃ個人的振り返り&これからやりたいことをまとめたnoteですが、何かしら皆さんの参考になれば幸いです。
なぜYouTuberになろうと思ったのか
まずはなぜYouTuberになろうと思ったのか、その経緯と動機を振り返ってみます。
YouTuberになろうと思った当時、私はテレビ局の新卒社員。
テレビ局の面接では、主に次のように自己アピールしていました。
「私の生まれた故郷である八女市(福岡県)の地方創生につながる番組がつくりたい!」
そう言いながら、父親のつくった八女茶を入れた透明な水筒を片手に、内定を勝ち取ったわたし。
この時の言葉は嘘ではありません。
ですが正直に言って根っこのところでは、
「みんなの知る会社でみんなに賞賛される番組つくりてぇ!」
「めっちゃお金欲しいぇ!」
が主たる理由でした。
つまり主な動機は、承認欲求とお金だったわけです。
もちろん、そんな動機で入社したため、さまざまな現実に打ちのめされることに。
まず、同期入社したメンバーに比べて、圧倒的にコンテンツを知らないことに打ちのめされました。
新しい企画を提案した時に、同期に「◯年前にやってた企画だよね」と言われた時は泣きそうになりました。
また、私が入社した2017年の時点で、テレビはすでに斜陽産業でした。
先輩と飲んでいても愚痴ばかり。未来に希望が持てるビジョンなど皆無に等しかった。
しかも念願のテレビ番組をつくるには、少なくとも5年は下積みが必要な業界。
そんな状況では、承認欲求もお金に対する欲求も満たされるはずもありませんでしたし、満たされる希望も見いだせませんでした。
(心から「人のためになる番組を作りたい」と思ってテレビ局にいる方や目指している方は、気分を悪くされる話だと思います。動機も不純で、途中で投げ出した身です。本当に申し訳ございません。どんな環境でも自分のビジョンを持ち続け、頑張れる人こそ一流だと思います。)
「好きなことで、生きていく」人たちに憧れた
そんな中、世間では「好きなことで生きていく。」のキャッチコピーのもと、無名の状態から、かなりの知名度とお金を得た「YouTuber」なる人たちが台頭し始めます。
2017年に入社してから2年ほど下積みを経験した私は、その番組制作経験を活かし「自分もYouTuberになれるのでは?」と思いはじめました。
そして、時を同じくして同じ想いをめぐらせる同期入社の友人(男)が。
「一緒にテレビ局を飛び出そう!」
そう言って友人は、わたしに勇気を与えてくれました。
そうして周りの反対を押し切り、私は会社を辞めYouTuberを目指すことにしました。
このときも動機はやはり、
「みんなに自慢できるような登録者をもつYouTuberになりてぇ!」
「そして、めっちゃお金欲しい!」
という、承認欲求とお金の2軸だったと思います。
100万登録、達成の瞬間
そんなこんなで、テレビ局を辞めて目指し始めたYouTuber。(厳密に言えば、100万登録のYouTuber)
辞めてからはシェアハウスで暮らしたり、友人を代表として起業してチャンネルを会社経営に切り替えたり、と様々なことがありました。
今回はYouTubeの伸ばし方を伝えたいわけではないので、その経緯は省かせていただきます。
そうして、2019年にテレビ局を辞めてから3年後の2022年。 とうとう登録者数100万人を超えるに至ったわけです。
わたしの幸せって?
そうして100万人を突破した節目に、改めて自分の幸せについて考えてみました。
現時点で一つ言えるのは、自分の幸せが承認欲求や金欲を満たすことだと思っていたのは要するに「何が自分にとっての幸せなのかよく分かっていなかった」ということ。
自分の幸せの解像度がまだまだ低かった、ということだと思います。
そこで今回は、
「幸せを感じた瞬間」と
「幸せだと思っていたのにそこまで幸せじゃなかった瞬間」、
「不幸せだった瞬間」
の3つを振り返り、私の価値観の輪郭を浮かび上がらせてみました。
結果、次のようなことを実感しました。
💡 振り返ってみて実感した幸せ・不幸せ
自らのやってみたいと思った表現ができると、幸せ
自らが何かの領域における表現が得意だと思えると、幸せ
自分の表現で人を喜ばせることができると、幸せ
目の前の行動の意味が腹落ちできていないと、不幸せ
長い間手に入れたいと思っていたものを手に入れた瞬間は幸せだけど、思っていたほどでもない。
手に入れた過程の物語を振り返ると、幸せ
手に入れた結果、不安を抱えだすと、不幸せ
1つずつ、具体的な出来事とともに解説していきます。
「1. 自らのやってみたいと思った表現ができると、幸せ」に関して。
具体的には、
自分の納得のいく動画をつくることができた時
幸せを感じていました。
思い描いた行動を達成できるだけ、何かしら自分を表現するだけでも幸せを感じられる、ということだと思います。
「2. 自らが何かの領域における表現が得意だと思えると、幸せ」「3. 自分の表現で人を喜ばせることができると、幸せ」に関しては、
YouTubeを始めてから最初に「面白い!」とコメントをもらえた時。
母親から「登録者〇〇人おめでとう!」と言ってもらえた時。
そんな時に幸せを感じました。
テレビ局時代から、どんな構成や言葉で人に伝えると心を動かすことができるのか、を考えていました。そのため、YouTubeの動画制作では自信をもって表現ができていたと思います。
そして、自信を持った自分の表現で、人を喜ばせることができると純粋に嬉しいです。
さらに見落としがちなことですが、人を喜ばせることができると、そこからエネルギーをもらえます。
自分から与えていたはずなのに、いつの間にか与えられている。
さらにその結果、自分の得意なことだと再認識でき、さらなる自信を得ることもできました。
1.2.3.が全て満たされると最高に幸せでした。それは、
納得のいく出来の動画に好評なコメントがつき、動画が伸びた時。
自分にしかできないことが達成できたような心地がしました。
調べてみると、1.-3.に関しては、「ikigai framework(WILL / CAN / NEED)」という有名な価値観を見直すフレームワークがあり、同様のことが提唱されているようです。
ここで「4. 目の前の行動の意味が腹落ちできていないと、不幸せ」について。
これはつまり、目の前の行動が自分の「ikigai」になっていないと、瞬間瞬間の行動をしているときも何か不安で幸せとは感じていなかった、ということだと思います。
過去を振り返り、自分の「ikigai」つまり「価値観」をより明確にし、腹落ちできると目の前のことに取り組んでいるだけで幸せを感じられると思います。
私が主に違和感を感じていた理由もここにあるように思います。
「5. 長い間手に入れたいと思っていたものを手に入れた瞬間は幸せだけど、思っていたほどでもない。」に関して、
100万人登録を達成した瞬間
10万人や100万人登録達成時に開催されるパーティーに参加した時
もちろん、こういった瞬間も幸せではありました。ですが、思っていたよりもグッと込み上げるようなものはなかった。
ですが、「6. 手に入れた過程の物語を振り返ると、幸せ」で述べているように、物語化して振り返ってみると段々と実感が湧いてくるような感覚がありました。
誰もが映画や小説などで物語に感動します。
仮にその時は辛かった過去も、今の自分の糧となる物語に解釈し、「過去の意味づけの書き換え」をしてしまえば幸せに感じられる過去は多いように感じました。現に、
ふと振り返って、多くの登録者を抱えるYouTubeを運営していることを再確認したとき。
これも幸せを感じた瞬間でした。
最後に「7. 手に入れた結果、不安を抱えだすと、不幸せ」に関して、
多くの登録者を抱え、それなりに稼げるようになると、それらを失ってしまう不安に駆られました。
こんなとき、小学生のときに読んだ佐賀のがばいばあちゃんの言葉を思い出します。
「金持ちは大変や。旅行にも行かなきゃならんで忙しいし、綺麗な服で汚すわけにもいかん。貧乏で良かったなぁ。」
(とはいえ、がばいばあちゃんが言いたかったのは、持つことが不幸だと言いたかったわけではなく、物質的に豊かでなくとも心を豊かに前向きに生きることが大切だよ、と言いたかったのだと思います。)
どうしたらより幸せになれる?
1.から7.の要素を洗い出してみた今、私は「どうやったらもっと幸せになれたのか」を考えてみます。
💡 振り返ってみて実感した幸せ・不幸せ
自らのやってみたいと思った表現ができると、幸せ
自らが何かの領域における表現が得意だと思えると、幸せ
自分の表現で人を喜ばせることができると、幸せ
目の前の行動の意味が腹落ちできていないと、不幸せ
長い間手に入れたいと思っていたものを手に入れた瞬間は幸せだけど、思っていたほどでもない。
手に入れた過程の物語を振り返ると、幸せ
手に入れた結果、不安を抱えだすと、不幸せ
まず、4.と7.以外の要素に関して。
これらの幸せは、やってみたいと思ったことは「とにかくやってみること」「能動的に行動すること」でしか得ることはできないと思います。
まずやってみないと幸せなのかどうか振り返りもできません。
ですが、4.の要素を考えると、自己欺瞞なく能動的に行動するには、目の前の自分自身の行動の意味に腹落ちする必要がありました。
そのためには、まさに今回のこのnoteで行っているように過去を振り返りつつ、自分の価値観を明らかにする必要があります。
ここまでの過程で明らかですが、過去を振り返るにも、振り返る材料がないといけません。
そう考えると、自分は先ほど間違った反省をしていたのかもと思いました。
まず一つ答えが出せる!と言って「何が幸せなのかわかっていなかった」「幸せの解像度が低かった」という反省をしていましたが、それも違うのではないかと。
つまり、もし過去の私が、承認欲求や金欲を満たそうと行動しなかったら、いまの自分の価値観さえ見えてこなかったのでは?と思うのです。
仮に、過去の私に
「幸せは承認欲求や金欲を満たしても手に入れられない」
「自分の生きがいを明らかにして行動すれば幸せ」
と伝えたとしましょう。
私はそう伝えられたとしても、持っていた承認欲求や金欲が実際に満たされたことがなかった状態では、頭で理解できても腹落ちまではできなかったと思います。
実際に、当時そんな忠告はいくらでも聞いていました。聞いていたけど、納得はできていなかった。
思考や論理で理解できていても、実際に体験して感情をともなった身体感覚でわからないとなかなか腹落ちできない。
自分はそんな三流の人間なのかもしれません。
そうすると、「どうしたらもっと幸せになれた?」という問いにおいて、私が本当に恥ずべき過去の自分とは「承認欲求や金欲に任せて未来を描く自分」などではなく「なんとなく不安になって行動しない自分」だったのではないかと思います。
これは7.の要素にも重なります。
人は常に自分の手元にある手に入れた経験を言い訳に、不安になって一歩を踏み出せません。
そう考えれば最終的な結論として、1.から7.の要素全てを抑えたものは「とにかく能動的に行動すること」では足りないでしょう。
不安のせいで一歩も踏み出せなければ、思い描いた行動はできません。であれば、一歩を踏み出すために持つべきは勇気。つまり、
「傷つくことも厭わない勇気をもって、能動的に行動すること」
これが最終的な私の結論です。
過去の自分へ
改めてまとめます。
最終的な結論は
「勇気をもって、能動的行動あるのみ!」
です。
しかし、その結論の裏には、いくつかの要素があります。
まず、目の前の行動に集中するには、
①:過去を振り返って自分の価値観を浮かび上がらせ、ワクワクする未来を描くこと
が必要。行動して経験を積めば積むほど、自分の価値観の輪郭は明確になってきます。
そして、行動に移すには、
②:失敗や傷つくことを恐れ不安になる自分を自覚し、「それでも構わん!」という勇気をもつこと
が必要だと思います。
さらに、
③:いかに人を喜ばせようか、と考える
と、あなたの行動の結果がより幸せを感じられるものになると思います。
3.についての説明をしたときには、ここをあまり強調しませんでしたが、これは「愛」とも言えます。
人に愛を与えると、行動した自分自身が幸せを感じられるだけでなく、人が喜ぶことによって単純に幸せが2倍になります。さらに言えば、人が喜ぶ姿は新たに自分が行動するエネルギーに変わります。
アンパンマンの生みの親、やなせたかしさんは自らが作詞を手掛けた『アンパンマンのマーチ』、そして自伝で次のような言葉を遺しています。
これらの歌詞や言葉をみて、きっとやなせさんは自分と同じことを感じていたんだろうな、と勝手に解釈しています。
これからの私
これまで、YouTubeを始めてから友人を代表として会社を創業し、COOとして自社やお客様のSNS運用に取り組んできました。
ですが実は、昨年2023年の8月に会社を離れ、独立。
自分の新たにやりたいことに取り組む決断をしました。
それは、テレビ局の面接のときに言っていた、
「私の生まれた故郷である八女市(福岡県)の地方創生につながる番組がつくりたい!」
ということ。
いや、少し変わりました。改めて今考えているビジョンを言葉にすると、
「日本茶で世の中の心をうるおす」
です。
物質的には豊かになった今、問題とされているのは精神的充足、心の豊かさです。
そんな時代に私は、日本茶を通して私たちの心をうるおしたい、と考えています。
なぜ突然日本茶なのか。
実は私、福岡県の八女市で祖父の代から続くお茶農家に生まれました。
大学生になって福岡から東京へ来てからは、様々な日本茶、紅茶や中国茶などを飲むようになり、お茶自体の面白さにのめり込むように。
父のお茶しか飲んだことがなかった私ですが、他のお茶を飲んだことで、さらに父のつくるお茶が、そして八女茶が好きなりました。
面接のときは、故郷に報いたいという想いが大きかったですが、なぜか今は対象が家族、地元、そして日本を超えて「世の中」全体になりました笑
この時点では、私の描く未来は「日本茶の面白さを世の中へ伝えること」だったのですが、
そこからさらに考えが大きく変わる出会いが。
それが「茶道」でした。
きっかけは岡倉天心著の『茶の本』。
読むまでは、嗜好品として楽しむことが好きだった日本茶。
ですが、そこに書かれていたのは茶道のノウハウなどではなく、茶道に根付く心をうるおしてくれる幸せの哲学でした。
茶道は心をうるおす哲学
茶道の哲学は、私がこのnoteで述べたような幸せの哲学にかなり合致していると感じます。
さらにすごいのは、その哲学が思想・文字にとどまらず、実践的に体験できる空間や所作にまで昇華されているところです。
詳細は『茶の本』や茶道について書かれた本を読んでみていただけると嬉しいですが、ここではめちゃくちゃ簡単に説明させてください。
茶道は、もとを辿れば道教や仏教そこから派生した禅の思想がインストールされた文化。
極端に言えば、釈迦が生まれた約2500年前から続く思想が根付いています。
それゆえに、茶道にはその精神性を表すさまざまな言葉が含有されていますが、その中から1つだけ抜粋するとすれば、やはり
「和敬清寂(わけいせいじゃく)」
この4つの漢字に当てはめられた哲学が最も茶道を表しているのではないか思います。
「和敬清寂(わけいせいじゃく)」は、茶道の基本理念を表す言葉で、千利休が提唱した茶道の精神を簡潔に表現した概念です。
和(わ): 調和を意味します。これは人と人だけでなく、自然環境との調和も意味します。茶会の参加者同士が心を開いて仲良く接し、お互いの個性を尊重しながら調和を保つことを表しています。
敬(けい): 敬意を表します。参加者がお互いを尊重し合い、礼儀正しく接することの大切さを示しています。さらに、自然や道具、茶会の場全体に対しての深い敬意も意味します。
この「和敬」とは、私の結論の一部ある「人を喜ばせること」「愛すること」と重なっていると感じています。茶道では人だけでなく自然や身の周りの環境全てに対して和敬の心を持つ、ということです。
清(せい): 清らかさを意味します。これは単に物理的な清潔さだけでなく、心の清らかさも含んでいます。茶室や道具を清潔に保つとともに、心も清らかに保つことが求められます。
寂(じゃく): 静けさや落ち着きを表します。外界の騒がしさから離れ、静かで穏やかな心を保つことを意味します。不完全さに時の重なりや生の躍動を感じる「侘び寂び」の美意識も意味します。
心が「清寂」であるとは、目の前の行動に集中できているゾーン状態であるとも言えるでしょう。
目の前の行動に集中するには、腹落ちした自分の行動の意味を見つけておく必要があります。
「腹落ち」する上で、日本人の美意識として注目されている「不完全(余白)の美」「侘び寂び」の美意識は、自分自身の捉え方の参考になります。
なぜならこの考え方は、私たちに勇気をもたらしてくれるからです。
人間はいつの間にか余白を埋め、完璧を求めます。
埋めないと不安になるからです。
それゆえ、過去の失敗した自分を赦すことができず、次の失敗を恐れるのだと思います。
「完全なものなんてない。むしろ不完全性にこそ美がある。」と考えるこの美意識は、私に勇気をくれます。
他にも皆さんも一度は聞いたことのある「一期一会」「無」など、人生を豊かにしてくれる哲学を茶道は今に残しています。
(本当はもっと語りたいですが、また機会があれば別のnoteを書いてみようと思います。)
物ではなく、心が渇いている時代
資本主義によっては私たちは明らかに物質的に豊かになりました。
かつて松下幸之助は「水道の水のように低価格で良質な物を大量に消費者の手に容易に行き渡らせよ。」と説きました。
当時に比べれば、現在の日本は十分に物が行き渡り、物質的にうるおった時代だと言えるでしょう。
しかし一方で、物質的豊かさを追い求めるあまり、心の豊かさはないがしろにされてきました。
そんなことはずいぶん前から言われてきたことです。
近頃では、精神的な豊かさを重視する人は増えている傾向にあります。
仕事に対してお金だけではなく「やりがい」を求める人が増えていたり、余暇の時間も増えたことでキャンプやサウナなどの趣味もブームとなりました。
世の中の自己啓発本やSNSには、「自分を愛そう」「自己肯定感が大事」「自己効力感が大事」という言葉が並びます。もちろんそれも大事だと思います。
しかし私は、「それだけではまだ足りない!」と感じています。
まだまだ私たちの心は渇いたままです。
なぜなら、「自己愛」ばかりが重視されていると感じるからです。
もっと自分の心を豊かにしてくれる「人を喜ばせる行動」、つまり「他愛」にまで言及されることは稀です。
私は、「自己愛」だけでなく「他愛」の価値も浸透することが、われわれ個人の心が豊かになるだけでなく、社会そして環境も豊かになる鍵だと考えています。
名著『愛するということ』で著者のエーリッヒ・フロムは、
他者を愛するということは自己犠牲ではない。
真の愛とは、自己を愛した上で、自己を愛するが如く他者を愛すること。
さらに、愛とは能動的に他者そして自分に働きかけること。
という主旨の内容を伝えています。
他者とは、人間だけではなく他の動植物を含めた自然も含みます。
そう考えると茶道は、自分を愛する「清寂」の心、そして他者を愛する「和敬」の心を重んじ、さらに行動に移すところまで包括した文化です。
いまを生きる人々の心をうるおし、生きやすくしてくれる哲学を持ち、さらに身体感覚として体験できる、とてつもなく完成された文化体系だと思うのです。
最後に。
かつて千利休は、鎌倉時代から続く従来の茶の湯から、簡素で洗練された「侘び茶」を確立しました。
彼は、茶道の精神性を重視し、より多くの人々が親しみやすい形に発展させたと言われています。
しかし、現代では茶道は再び敷居の高い伝統文化のような位置づけにおさまっています。
もちろん、昔からの蓄積・研鑽を今に残す茶道も必要でしょう。
ですが私は今一度、茶道を日本だけでなく世界の人々が気軽に親しむことができる文化へと再解釈し、その間口を広げたいと考えています。
そのビジョンを表した言葉が「日本茶で世の中の心をうるおす」です。
そんなビジョン実現のためにまず、色々な場所で日本茶を振るまうことができる「茶室キッチンカー」から始めようと考えています。
会社の登記から奔走する今、私は受験時代以来のゾーンに入っている感覚を覚えています笑
こんな長い文章を最後まで読んでくださりありがとございました!
今後の経過をどんどんSNSで発信していきますので、もし私の活動に興味を持っていただけた方はぜひフォローやコメントをお願いします!
共感していただける方ともお話ししたいので、DMも遠慮なくいただけると嬉しいです!
特にこれから事業を展開するにあたり、茶室キッチンカーや抹茶カフェブランドのデザインに興味をもっていただいたデザイナーの方などいらっしゃいましたら、ぜひお仕事の相談をしたいです。
こんな個人的なnoteをここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!