自己責任論の誤謬

自己責任論が正しいのであればあらゆる制度は不要だ
労働基準法も義務教育も何もかもなくてよい
なぜならば自己責任だから
どの様な犯罪被害に晒されても自己責任であるから裁判をする必要もないし法が不要である
つまりは無政府であっても良いとさえ言えてしまうのではないか

こう言うと、現実に制度は存在し、それらが与えられた上で底辺なのだから、やはり自己責任だとする向きもあるのではないかと予想される
そのような感慨を抱く者は、それはそれで視点が欠如している人間であり、先の考え方と同様に酷く極端で考えなしなのだと思う

親がご飯を作ってくれるだとか、
そうでなくてもご飯代を用意してくれるだとか、
修学旅行に行くのが当たり前だったり、
塾に行かせてもらえるのが当たり前だったり、
勉強に打ち込める環境整備をしてもらえるのが当たり前だったり、
習い事や部活にかかる費用を払ってもらえるのが当たり前だったり、
そういう世界観を無意識に当然の前提として語っている

親ガチャ否定者の大半は程度や種類でものをみることができず、自分の中の前提で真偽をとってるに過ぎない、極めて二値的なものの捉え方をしている様に見受けられる

確かに、幼児期にネグレクトやら虐待で亡くなってしまう子や、堕ろされて生まれない子というものもあろう
しかしそれに比べてそれ以外は親ガチャ当たりというのは馬鹿げた単純指向と言わざるを得ない

そういう人間は、父親に堕ろされかけ、母親がそれに抵抗することで出生できた私のような人間をまずもって関知していないのだろうし、前提としていない
二値で当てはまるかどうかだけで判断を下すのはあまりにも解像度が低いと言わざるを得ない
生まれられた子は親ガチャ当たり?
虐待されても死ななかった子は親ガチャ当たり?
莫迦なことを言うんじゃないよ

彼らは考えるのが苦手で嫌いなので、そして短文的に纏めたがるが故に、狭い視野で無知のままそのようなことを言ってのけてしまう

そもそも
親ガチャというのは環境と遺伝子という運要素が人生を決定することを端的に言い表した代表性のある言葉というだけだと思う
兄にレイプされたり姉に殴られ罵られ続けた私の様に兄ガチャ姉ガチャ「も」死んでる可能性をその言葉自体がカバーし切れておらず不完全な面がある
想像力がなく情報感度の低い人間はそのような事例を想定せずに「努力」というフィクションに縋り付く
それは自分が努力で現在の立場や実績を得たのだと信じたいのだから仕方がない幼稚性なのだけれど

そも、自分の体験でしかものを語れないのが人間なのだろうか

平等に全人を救済するだけの資源がない以上は「これはよくてこれはダメ」という線引きは存在せざるを得ないが、それ自体が一つの差別であると言えよう

例えば今の十代が救済されるような法整備、高校無償化や大学無償化が進んでも、それによって二十代以上でそれらで苦労した人間が直接救済されるわけではない
寧ろ無償化時代しか知らない者はそれが当たり前で普通の大前提となり無知及び未体験故に無理解な態度な思想になりやすいのではないかとさえ思う
十代の子を持つ親が経済的に助かったり、国として出生率の改善が見込めたとしても、それは当該の二十代以上の困窮者には関係のない別問題である

よって、すでに存在していた格差を救済することは不可能
あるとすればそれは記憶に干渉するなどして認識を歪曲することだけではなかろうか

まあ、強者と弱者は絶対に分かり合えない
それは今後も変わらないだろう
強者は想像力を欠き、弱者は解決力を欠く
きっとどの国に逃げても格差から逃れることはできないとも思う
シンガポールのように家が貰えるみたいな国もあるようだから、ちゃんと時間をかけて調べてみればそんなこともないのかもしれないけれどね

やはり、無知は罪で、損で、間違いの源泉だ

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