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明治の小児科女医、50年の診療と信念 2 | A Trace : 失われかけた物語に目を向ける
(前回までのお話)
ある日、古いガラス瓶と出会った。それは何十年も前の医療の痕跡だった。
醇の人生に光を当てた人
僕が横山醇の生涯を詳しく知ることができたのは、ある一人の女性が残した資料のおかげです。
横山醇を最も詳しく知る人、小林眞智子さん。
彼女が丹念に集め、整理した記録がなければ、醇の足跡をここまで辿ることはできなかったでしょう。
醇のことを語る前に、まず彼女の仕事に触れたいと思います。
そうでなければ、僕は醇のことを語れないからです。
眞智子さんは、龍野のミニコミ紙『楽とんぼ』を2000年6月の創刊から2009年の105号まで発行し続けた人物です。
県立高校の英語教師でしたが、その枠を超えて、地域の歴史や文化を掘り起こし、イベントを企画し、店舗情報・コミュニティ案内まで、タウン誌を発信し続けた方でした。
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特に興味深いのは、この「楽とんぼ」、人力で全戸配布されていたそうです。
(どの範囲を全戸としたのかは現在調査中ですが、手作業で届けられていたことは確かです。)
とにかく、眞智子さんが備えていた教師らしいグイグイいく先導力が、当時多くの町の人をグイグイ動かし、調査と原稿執筆、配布にいたるまでを実現させていたようです。龍野は今も昔もパワフルな女性がたくさんいる場所です。
かつて『楽とんぼ』制作に関わった女性に話を伺うと、
「彼女の熱意に引っ張られる形で、自然と手伝うようになった。『あなた!記事を書きなさい』と言われて書いてくると、バッサリ切られることもあった。それがやっぱり悔しくて、今度は切られないように、切られないようにと頑張った。燃えあがるものがあった」と語っていました。
この話、めっちゃ「先生」ですよね。そう思いませんか。
(「楽とんぼ」については、また別の機会に詳しく触れてみたいと思います)
残念ながら、僕が龍野に来た時には、眞智子さんはすでにお亡くなりになっていました。
それでも誰かが残すから、後の世代が時空を超えて受け取れる。
眞智子さんが書いた資料の写しを僕が見ることができたのも、
診療所跡に今お住まいの方が横山家をリスペクトしていて、
資料を残しておいてくださったからです。
僕もこの、小さくも偉大なリレーの見えないバトンを繋ぎたいと思っています。いつか誰かがまた受け取る。それがあなただと嬉しい。
眞智子さんが伝えた横山醇
では、眞智子さんは横山醇をいつ、どうやって伝えたのでしょうか。
紙の資料としては、ミニコミ紙『楽とんぼ』のほかに、雑誌『BanCul』2006年夏号から2007年冬号にかけて3回にわたって掲載された「播磨人物伝 兵庫県最初の女医 横山醇ものがたり」に最も詳しくまとめられています。『BanCul』に連載するきっかけになったのが、2002年(平成14年)に旧脇坂屋敷を使い当時の医療器具を集めて醇の診察室を現代に再現した『横山醇ゆかり展』という企画の開催だったようです。
ここで生まれた疑問──なぜそんな再現ができたのか?
醇が亡くなったのは1959年(昭和34年)。2002年時点で、すでに40年以上の月日が経っています。
にもかかわらず、診察室を忠実に再現することができた。なぜなのか?
その鍵を握るのは、前回の新聞記事に登場した醇の姪、横山恒子さんです。
恒子さんもまた醇の背中を追い、昭和9年に女医となりました。
大阪大学医学部で助手を務め、肝臓ガンの研究で医学博士となり、戦後、兵庫へ帰郷。
今は醇の医院跡すぐ近くにある如来寺で、醇と共に眠っているとのこと。
医師として敬愛する醇の遺品——診察台、治療器具、幼児用体重計、古い本や写真、手紙。これらを恒子さんが大切に残し、さらにそれを旧診療所で音楽教室をしていた恒子の妹のよし子さんが残し、眞智子さんに託した。
「ゆかり展」には醇を覚えている地元の年輩の方々が来られて、醇先生の思い出を語っていったそうです。
そういった一次資料や証言をもとに、眞智子さんは醇という人物を掴み、
「横山醇ものがたり」を書き上げることができたのではないか。
僕はそう推理しました。
このようにして、バトンは繋がっていった。
もし誰も残そうとしていなかったら、私たちは何を忘れていくのでしょうか。昨日ノ晩ごはん、何食ベタカスグ思イ出セナイ。
次回予告
眞智子さんや恒子さんは、横山醇の人生から何を伝えたかったのか?
次回、いよいよ横山醇その人に迫ります。
なぜ彼女はここまで優れた成績を修め、先進的な女医になれたのか。
醇の人生は、当時にするとかなり異例で先進的な価値観によって形作られていました──
(次回へ続く↓)
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参考文献:
小林眞智子:「播磨人物伝 兵庫県最初の女医 横山醇ものがたり 1」,『BanCul』,Vol.60(2006年夏号),2006年,pp.84-86.
小林眞智子:「播磨人物伝 兵庫県最初の女医 横山醇ものがたり 3」,『BanCul』,Vol.62(2007年冬号),2007年,pp.84-87.
【告知】
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京都市立芸術大学 美術学部教授 加須屋明子先生に タツノへぇへぇクラブで喋っていただきます!
何かと不穏なニュースが絶えない昨今ですが、 時代が不穏なのは今に始まったことではない?! ツールの発達と手に取りやすさによって誰もが創作活動に勤しむことができ、そしてソーシャル
メディアによって誰もが頭の中身を発信することが簡単になった今の時代。
アートに対してオープンに語りやすくなってきたと言うことかもしれません。
「芸術と社会は常に密接に関わり合っていて、 その関係性は複雑に推移してきました。
芸術は思想や感情を力強く表現する手段である一方で、 社会の規範や価値観に挑戦することもあり、しばしば芸術表現と倫理的配慮の間で緊張や対立を生みます。 検閲や歴史修正主義は過去と現在をコントロールしようとする権力の形態の一部として存在しており、それらに屈せず創作活動を展開することは、私たちにとって権利であると同時に倫理的責務でもあるのです」ー加須屋先生
たつのアートプロジェクトの芸術監督を長年務めてこられ へぇへぇクラブの常連でもある加須屋先生。 今回はご自身が編纂・著された「芸術と社会」のお話を中心に ご自身の専門分野を大いに語っていただきます! 基調トークに加えて、 ちょっと変わったQ&Aセッション ①「芸術と社会」お悩み相談室 ②この表現はセーフ?アウト?クイズ など 加須屋先生とインタラクティブで、ゆるめの空気でお話を進めていけたらと思います。 ◆開催場所◆ 「菓子と珈琲 朔」 2/14 18:30開場 19:00ごろスタート 前半が基調講演 後半がお酒を飲みながらのワイワイタイムです
◆参加費◆ 2000円 (仕出し付) 飲み物等は各自持ち寄り・持ち帰りでお願いします。
仕出を予約しますので、参加されたい方は 2/11までにメッセージをください! だいたい21:00終了
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