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明治の小児科女医、50年の診療と信念 3 | A Trace : 父の先見と娘の選択
前回のお話
横山醇のストーリーを語り継ぐ、小さくて偉大なリレーと見えないバトンのお話。
スーパーかしこ横山醇を作った環境
横山醇が女医への道を邁進することができたのは
父・省三の「男は学問より商いの道が大切。女は自立できるように学問が大切だ」という教育方針によるものでした。
前段はともかく、女性は自立すべしという教えは当時からすればかなり珍しく、当時から見ると先進的な教育方針だと思われます。
実際、醇の弟の敬三が京都第三高等学校に入学したときも、連れ戻して大阪に丁稚奉公にやったそうです。(こっちもなかなか切なさがありそうですが…)
あるいは、県に表彰されるほど成績優秀の娘を見て、
「長所を伸ばしていけ」という思いがあったのかもしれないですね。
父・横山省三は天正18年(1590年) から酒醤油醸造業を営んでいた記録がある醤油醸造の名門・横山家の「壺屋」(1715年開業)の家系で、
1889年には兵庫県播磨国龍野醤油醸造業組合を結成、初代組長として龍野のうすくち醤油産業を牽引した人物です。
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これは陶像ですが、大正4年に省三の銅像が建った時には省三の履歴としてこう書かれています
明治二年十二月二十一歳の青年を以て龍野町字横町の年寄役を申しつけられ當時既に長者の風あり
明治2年に龍野藩主・脇坂公から町のまとめ役を仰せつかっており、
この3年後に醇が生まれています。
つまり、実力を伸ばしていけるだけの恵まれた環境が醇にはありました。
ただし、醇には壁がありました。
女性というだけで立ちはだかる男女差別の壁です。
男尊女卑の空気はどのように作られたのか
政治学者で法学博士、『女性差別はどう作られてきたか』(集英社新書、2021年)の著者である中村敏子さんの記事を要約すると、このようになります。
江戸時代からあった「家」の考え方に、中国の家父長制とキリスト教に由来する西洋の考えを明治政府が受け入れようとした。この考えはすぐには浸透しなかったが、やがて社会的な変化が起こった。国家が権利や義務を男性にだけ与えて、男性だけを「一人前の国民」として認めるようになった。「国家を担っていく一人前の人間は男性だけである」という考え方が出てきた。
1890年に教育勅語が発布されています。
この空気感で、省三が「女は自立ッ!勉強しろ!」と説いたのは、
時代の空気や常識にとらわれず我が道を行くタフさがあり、
またビジョナリーだったといえます。
この父の教えは醇にとっても大きな支えになったはずですし、
この後の苦難を乗り越えていく後ろ盾にもなったと思います。
第1回で紹介した新聞記事にも、醇と省三が壁にぶつかりながら学問を求めた様子が伺えます。もう一度引用します。
当時、兵庫県下の女学校としては神戸に女学院、近府県では大阪の梅花女学院、京都の同志社があるだけだった。少しでもいい学校に入ろうと竜野から明石までを単身人力車で飛ばし、明石から汽車に乗り換えて三校を見学、京都の同志社に入学した。
明石から汽車に乗り換えて…のところが気になって調べてみましたが、
明石駅の開業は1888年(明治21年)なんですね。はて。。
新聞記事では、「同志社に入学」とありましたが、
当時同志社大学はキリスト教系のため男性しか入学を許されておらず、女性を受け入れるために同志社女学校が作られています。
在校中に同敷地内に同志社病院、京都看護婦学校が作られ、また卒業の2年前から佐伯理一郎博士による看護学、衛生学の講義が始まっています。
また、同記事では同志社を卒業したのち、「その足で東京へ向かった」と書かれていますが、小林眞智子さんの調査によれば違います。
同志社女学校の後は大阪薬学校に入学しています。
同志社女学校の卒業生の多くが教師を目指し、ほとんどが東京の明治女学院(現東京女子大)に進む一方で、醇は薬学校へ進学した。
このことから、この頃から医学の道に進もうとしていたのではないか、と眞智子さんは推測しています。
薬学校で薬学とドイツ語を学んだのが医学の基礎を作り、
済生学舎の入学からわずか2年半で医師免許を取得することができたのは、
やっぱりすごいとしか言いようがありません。
女性が医師を目指すことの難しさ
医師免許制度のもとでは医学校に入らねばならないところを、女性は入学を拒まれ、医師試験も女性であることで拒否されていた時代がありました。
ということは、女性が医者になることが「実質無理ゲー」だった時代があったということです。
醇が入学できた済生学舎は私立学校として長谷川泰が明治9年に設立、明治17年になって男女共学を認めることになります。
これとて、男女共学は実態と程遠く、醇は「講堂で3,4名の女子学生とともに後ろに立ったままだった。そして筆で講義を書き取り、帰って夜を徹して清書するという日々だった」と家族に話していたそうです。
めちゃくちゃ大変ですよね。できますか?
共学を受け入れる学内ですらこれですから、世間の目はいかほどだったでしょう。
醇にとってはおそらく、とてつもない孤独を味わい理不尽な状況と戦った日々だったのではないでしょうか。
次回、
済生学舎で医療を学ぶ彼女の情熱を支えたのは、医療に人生を賭けた先達と仲間たちでした──
(続く)
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参考文献:
小林眞智子:「播磨人物伝 兵庫県最初の女医 横山醇ものがたり 1」,『BanCul』,Vol.60(2006年夏号),2006年,pp.84-86.
『横山省三翁之銅像 二十五日除幕式挙行』大正4年5月25日付 龍野新聞
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