渋沢栄一の基本思想(1)
今週末から「青天を衝け」がいよいよ始まりますね!吉沢亮くん好きなので楽しみ!最近NHKでは連日のように渋沢栄一渋沢栄一と言っています。トレンドを作るってすごい。テレビの力、NHK、大河というブランドの力もさることながら、やはり渋沢栄一がこの2021年にトレンドになるのはうれしいことです。
ちなみにGoogleトレンドでみる渋沢栄一の過去5年のトレンディぶりはこんな感じ。
2019年春のタイミングで新一万円札の発表があったのでそれがヤマ。あれ、大河の影響ってそんなにない??と思い過去1年で見てみると
うーん・・思ったほどうなぎ登り感はないですが(一番右の急上昇は直近のデータなので不安定、参考にできず)、ドラマ始まるとのぼるのかしら??しばらく静観してみます!
こちらもそろそろ本題に入ろうと思います。前回は渋沢栄一がいかに素敵な人物だったかについて、ざっくりまとめました。今回は、基本思想である「道徳経済合一説」について。
なぜ道徳経済合一説が生まれたか?
道徳経済合一説とは、一言で言うと、
「論語」的な倫理観を持ちながら「算盤」をはじく、財を成す
こうです。
なぜこの思想が出現したか?
江戸時代以前の日本における商人の社会的地位は、士農工商の文字通り、ほかの階級に比べると低い位置にありました。
それは、武士階級に求められていた儒教に基づいた道徳観が、商人には求められていなかったからではないか?つまり、商人が商売をすることで富を得ること、それ自体が他の階級から偏見を持たれていたから。
ただし欧米に追い付け追い越せの明治期では、「富国」こそがゴール。そのためには商工業の発達が必要不可欠でした。
個人商店がこじんまりと商いを営むことがメインストリームだったそれまでのやり方を改める必要がある。小さなお金を寄せ集めた、いわゆる「大資本」によって組織を運営する「合本組織」(がっぽんそしき)の確立が急務です。
合本組織の実現には、それ相応の空気の醸成が必要だったはずで、その空気のベースが「道徳経済合一説」、つまりそれまでは乖離したものだとしてとらえられていた道徳と経済を合一のものとしてみなに捉えてもらわなければいけない、といったロジックです。
空気の醸成って私が好きなワードなのですが、これ、今の時代だったらどんな広告を打っていたのか?どんな広報活動をしていたのか?もし私が明日朝起きて隣に渋沢栄一がいたら?どんなPR活動を提案できるか??妄想はひろがります。笑 逆に渋沢栄一がふわっと明日タイムスリップしてこの時代に登場したら、秒でClubhouseに入れそう(誰から招待うけるかな?)とか。
はい、脱線しましたが、ここで渋沢栄一の言葉を1つご紹介。
「富が眞正(しんせい)の道理に叶ふやうでなければならぬ」
「眞正」とは、まことで正しいこと、いつわりのないこと、「道理」とは、「人間の踏み行ふべき節目」とされ、それは適度に履行することが求められています。※『青淵回顧録』参照
日本が長い鎖国が明けて開国した後、国内の経済は「長足の進歩発達を遂げた」ものの、「泰西の物質文明を入るるに急して、精神方面を閑却した」と渋沢は言います。閑却したって、すごいストレートな表現・・西欧の文明が日本に入ってくるスピードがあまりに急であったために、我々日本人は精神的に何を大切にするべきなのか、といった問題を放置してしまった、とでも言いましょうか。そんなこと言ったら今の時代っていったいどれだけのスピードなの?と思ったのですが、そのコンテンツが入ってくることによる生活変容、態度変容、という点で考えると、明治期ほどではないのかな、とも。
しかし戒心すべきは今後。
「政治と道徳及び経済と道徳の合一といふ事を信となし、将来健全なる発達を期するやう切望に堪へぬ次第である」
健全なる発達って100年たっても難しいテーマ。
栄一さんから見て、今の日本って「健全なる発達」の末ですか?途上ですか?全然違う道だったりしますか?
今日はこの辺で
・あおあや・
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