ソーコンの手 26 黒田晟比胡 2021年3月31日 20:37 これは 僕が愛する 沖縄と とある沖縄空手の 達人のお話しです。。 那覇で暮らしていた頃。 いまから、8年くらい前だろうか? 仕立てのよい、青色のかりゆしウェアの 半袖から、見事に鍛え上げた 隆々とした腕に、ごつごつした 拳がのぞくご老人が、たまたま 公園のベンチで隣り合わせた。 長男を、買い物帰りに 遊ばせるために、立ち寄った 大きなガジュマルの木の下の ベンチだった。 「どちらかの空手の先生ですか?」 沖縄には、あちこちに 空手道場があり、そんな 道場の先生なのかな❓と 僕は、何の気なしに 声をかけた。 ああ❓これ わたしの 空手はね いろいろの先生方からの まんちゃー ※ミックス だから、先生なんて 立派なものでは、ないよ。 にーにーは 内地の方❓ 「はい、いまは那覇でくらしていて あそこにいるのが、僕の長男です」 ご老人は、若かりしころ 沖縄県中部、コザという 基地がある街に暮らしていました。 コザの雑居ビルの二階に 部屋を借り、小さな空手道場を していました。 その強さは、街のケンカ自慢や 米兵たちにも知れ渡り、沖縄人の 弟子も、米兵の弟子も 道場に通っていました。 「でもね にーに。 【武】ほど 難しいものは、ない。 あの頃は、人の心が いまより、すさんで いたからね」 1970年代、沖縄、、、。 1970年 沖縄市コザ。 米軍の圧制に耐える 沖縄人の不満は極限だった。 戦争で親を失った若者たちや 明日、戦場で命を失うかもしれない 米兵たち。 すさんだ人々の心。 街では知られた武術家であった 彼すらも、よく喧嘩を売られた という。。 「わたしは、空手を勉強していますが ケンカのやり方がわかりませんので」 そう言って いつも、ケンカを 売られるたびに 謝っていたよ。 一度も、空手を 道場の外では 使わないようにしていた、、。 そんな、日々が 続いていた、ある日。 1970年の とある日、沖縄。 まだ、年端もゆかぬ 小さな女の子が、人として もっとも残酷な殺され方をした。 ありえないほど 可哀想な亡くなり方を。 ある一人の、米兵の手によって。 街は、、 沖縄は、憎しみと怒りで 真っ二つに、なった。 罪を犯した 米兵が、罰せられることなく 沖縄を、去ったからだ。 コザ暴動の、始まりだった。 沖縄人の道場生たちは、言った。 「先生、今こそ空手の力で 米兵を懲らしめましょう。 暴動に、参加し市民の力になりましょう」 米兵の道場生たちは、言った。 「先生が、暴動に参加するなら 先生とはいえ、容赦できない。 どうか、暴動が、終わるまで 絶対に、道場から出ないでください」 だが、先生は 一言もしゃべらず どちらの、問いかけにも 応えず、、 ただ、道場の真ん中で 黙って座っているだけだった。 極限まで達した 憎しみと、暴動のなか 幾人かの暴徒は、、 武器をもち とりかえしの つかない行動に 出る者も、いた。 だが その瞬間、闇の中から たくましい手が伸びてきた。 「意地ぬ出ら 手ひき」 気絶している、うちなーんちゅの暴徒を、なおも打ち続ける米兵もいた・・・。 闇の中から たくましい腕が 伸びてきた。 闇のなかで 腕の持ち主は、言った。 「手ぬ 出らぁ 意地ひき」 激しい暴動は 明け方まで、続いた。 だが、ウチナーンチュにも 米兵にも、一人の死者を 出すことなく、暴動は 終わった。 「わたしみたいな空手家は、沖縄に たくさんいるよ。私は、自分が立派なことを したとは、思っていない。 ケンカのやり方が わからないから、止める側に 回っただけさ」 お名前も 道場の場所も、いまと なっては、わからない。 ただ 老人が暴動の夜に 発した言葉は、糸満市のとある 場所に、今も眠っている。 誰にも 打ち明けなかった 人生の断片を、僕に 話してくれた、名も知れぬ 達人に、ささやかな感謝を 伝えたい。 この記事が参加している募集 #忘れられない先生 4,706件 #沖縄 #創作大賞2022 #忘れられない先生 #沖縄拳法空手 #紙芝居 #君の言葉に救われた #沖縄空手 26