いっろいろ追悼する8月 〜特攻の翼から、老害まで〜
2023年8月6日。戦争について考えざるを得ないこの日、福岡の物語を語る地元の劇団ギンギラ太陽's の演劇『幻の翼 震電』を観に行った。
福岡市から電車など乗り継いで1時間半近くの、マジのどかな大刀洗(たちあらい)町へ。東洋一と謳われた飛行場や航空関連施設のあった大刀洗。
【幻の翼 震電】
太平洋戦争の終戦間際、福岡で製造、試行されていた局地戦闘機「震電(しんでん)」は、B29の高度と速度を上回る性能と、飛行士の命をも守る理想とを兼ね備えていた。
「町を守る。みんなを守る。飛行士の命も守る。」
けれどその理想の実現は間に合わず、少しでも機体を軽くしてB29の高度に追いつこうとした現実の果てで、
日本の戦闘機は、唯一、攻撃の機能のみを残した他には通信装置も何もかも、飛行士の安全のための一切を外して飛び立つしかなかったわけだ。
憂えても憂いきれない、ユーウツさがつきまとう。
開演前のロビーの一角が、小さな展示コーナーになっていた。戦時中のあの地味ぃ〜な色合いの服とか、特攻の方々の写真、
そして実に ”立派な挨拶” "大和魂で敵を倒す意気込み" が書き連ねられた家族への手紙。几帳面な、整った文字だ。
そのすぐ下には、印刷された書式に日時や場所や氏名がペンで書き込まれた死亡通知書。
大正14年生まれ20歳。大正15年生まれ18歳。私の父は、大正13年生まれ。終戦は21歳になる少し前だった。
父もきっちり美しい字を書いた。古びた展示の手紙の前に、自分は若くして死んでゆくものだと漠然と思わされて育った父たちの世代のリアリティが立ち込める。
【手紙の検閲、YouTubeのバン】
時代の犠牲として若くして散った命が、仮に死なずに生きた時に、その価値観を周囲に撒き散らして頑固なポンコツとなっていた可能性を、私は父に見てしまう。
「お祖母様を宜しく頼みます」
「敵の巨艦を見事沈めてミセマス」
敵の戦闘機がチョロチョロしてゐますがあんなのはほっといて、私は巨艦の方に突っ込みますよ、
という勇ましい文章が、わっずっかっばかりでも文字通りの本心を含んでいたなら、むしろ、今自分が生きていることの重苦しさが、微量にでも軽くはなる。
けれどそれが、ユーチューバーたちが動画を削除されないようにと過敏に「コロナ」や「ワクチン」といったNGワードをやたらと避けている様子と同様、
いやそれより慎重に、まずはとにかく検閲を通り抜けて家族のもとに手紙という物体を送り届けるために徹底して貫かれた「建前」の美辞麗句であったとしたなら、
その行間の奥底に隠すしかなかった本心は、相手に無事届いたのだろうか、とどうにもならない心配が湧き上がる。
もし私が出撃前の飛行士だったとして、本心を行間のそのまた行間の、底のさらなる底に潜めて書き送ったとしても、
少なくとも私の親にそれを読み取ることはできなかったろう。
ただ、ああうちの子は立派なことを言って死んでったと泣くタイプ。嘆いて周りから慰めてもらって、もっと自己憐憫に耽って嗚咽しつつ、どこかでその己の姿に満足するタイプ。
私のいた実家というのはそういう場所だった。
行間リテラシーの低いやつしか手紙を送る相手がいない場合、出撃前の私だったらどうしていたか。
どうせ通じ合えんし、と手紙なんて送りもしないのだろうか。いやーせめてこの世の名残に、送りはするかな。どうだろう。
死ぬ直前の、別次元にある虚しさを、私はどう処理してから飛び立つだろう。
【クラクラしちゃう。】
今もしあの親たちがまだ生きていたら、彼らは見事に、
コロナ禍の忖度を率先して体現し、朝から晩まで怯えながらマスクで暮らしていたことだろうし、
ワクチンの危険性にでも私が触れようものなら、世間サマの流れに沿っていないという理由で激しく拒絶反応を示していたことだろう。
彼らは常に世の中の「王道」をゆき、私のことを少数派として堂々と非難しながら嘆くことができる人たちであった。
クラクラしちゃう。
誰だったっけかな、婚約者が出兵前に「この戦争は間違っていると思う」と打ち明けたのに、
その人の方はよく教育されてしまった軍国少女で、あら私はそうは思わないわ、と言って送り出してしまったという作家さんがいたよなーたしか。
彼は帰って来なかった。その女性は、自分のとった言動をその後思い返して、生涯独身を通されたのだったと思う。
どちらかというと彼のほうの虚しさを、果てしなく思い続けてしまうタチだ、私は。
クラクラしちゃう。
【忖度しちゃう。】
ギンギラ太陽's も一瞬だけれど描いていた。
「この戦争はもうすぐ終わる、あんな国に勝てるはずがない」と口にした技術者に、
「そ、そんなNGフレーズを口にしたらアンタ・・・!」という空気で、びくっと反応した周囲。
B29は、堕ちた機体までが、日本にその力の差を見せつけた。その墜落機から取ったネジ1本の精度の高さを見れば、技術者たちにはもうわかっていた。
日本のネジは、一度ゆるめたら二度と締められない、粗悪な精度だったという。
わかっていても口にできない。忖度。世間体。
アンタ今その言葉はNGだよと打ち消そうとする力を持つのは、教育という名の威を借りた「常識」だ。
己は多数派側にいながら、安全に他者を排除できるのが「常識」。思考停止の発生源。
息子を、夫を、兵隊に取られ、犬死にさせられた悲しみ、まぁこの辺はまだ時代の被害者として円満解決できるところとしよう。
けれどやがて強く生き残って昭和を支え、周囲と足並みを揃えることを良しとして、ニッポンの忖度ダマシイを次世代に教え、
また律儀に受け継いできた一人一人が、どこまで時代や戦争やコロナ禍の「被害者」だったと言いきれるのか。
まぁ、うちの親のメンタルなら、言えるわけだけど。で、そゆヒト多いよね、うちの親は多数派なわけだから。
だから思うのです。平和を守るとか、過ちは繰り返しませぬとか、どう一貫させたリクツで言えるのか、と。
皆、被害者であり、加害者というか加担者であろう。
私もですよ。被害者も加害者もいない理想の世界を作る力を持たないまま、お給料もらって生きているからね。
【パラレルを行き来しちゃう。】
父は特攻隊員になってはいなかったが、千葉の飛行場にいたそうだ。
頻繁に、いきなり敵機の機銃掃射が襲う。機体の整備中、身を隠す場所は無く、ただ伏せていることしかできない。
爆音が遠ざかり、行ってしまったと思って起き上がると、もうそこで二度と起き上がらない者もいた。そんな話を、時々聞いた。
その機銃掃射で、二度と起き上がらなかったのが父だったとしたら、とよく思った。
そのまま私が生まれない方のパラレル現実が展開していた方が、私には楽だったのかもしれん、と。
想像できる限りはどこかに存在しているという、パラレルな世界。
そこで父のかわりに生き残った人は、どんな人生を歩んでいたのだろう。
クラクラしちゃう。
そんなロシアンルーレットな機銃掃射をくぐり抜け、幸か不幸か父は殺されないうちに終戦となった。
40歳を過ぎるまでの動きは謎とされており(笑)、
その後、家庭を持ち(もしかしたら私には、どこかにまだ見ぬ兄とか姉がいたりするのかもしれまテン)、
43歳にもなって生まれた第一子(のはず)の私にやがてブチ切れて絶縁され、老人になり果ててから、死んだ(らしい)。
なにせ、「イマドキの若いもんはなっとらん」という口癖の「若いもん」っていうのが、私たち世代のことじゃなく、フツーに私の同級生たちの親世代のことを指しとったからね(汗)。
若くして散る命も儚いが、生き残れば生き残ったで、どうですかこの、ナニなズレ感。
そんな父は字の書き方を、幼い頃に父親から叩き込まれた。
実の母親に続いて、その実の父親も国民学校(小学校)の低学年の頃には亡くしたそうで、
自分の両親や妹の眠る墓の場所も長いこと曖昧だったほど一人きりだったようだから、
きっと、父にとって自分の父親譲りの字というのは、自身の体に刷り込まれた唯一の形見のようなものだったのだろう。
小さい頃から私は、そういう父の感覚については察知していたと思う。
この人は孤独な時を経てやっと家族を得て、我が子に何かを教えている自分が今嬉しいのだろうから、私という教えられ役が必要なのだ 。
物心ついた頃にはかなりはっきりとそう感じながら、やたらと何かにつけ教え込もうとする父にただ、うんうんと頷いていた。
【教えられ役】
たとえば海水浴に連れて行ってもらうバスの中、急に説明が始まる。
・・・バス停の前の道路が、ほら、少し斜めに歩道側を削り込んで停車用のスペースがとれるようになっている、
あれは、バスの停車中にも道路全体の流れを妨げないようにするためだよ(というような説明だったはずだ、後で場面の記憶と理屈をつなぎ合わせると)。
・・・ありがとうございます、オトウサマ。
今のワタクシの知能の解像度では、ただバスの道が斜めなのは何か理由があるらしい、と理解するのが精一杯なのですが、
うんうん、と言っておきます、オトウサマ。
てゆか、私は小さ過ぎて、混んだバスの中で立っている自分の背丈から窓の外を見ても、
地面を覗き込む角度にある道路の形状なんて、そもそもまったく見えてもいないわけですけれどもね、オトウサマ。
従って、今あなたが熱心に教えていらっしゃる案件は、まっっったく私の興味にも視野にも無いことなのです、オトウサマ。
つまり、いつも最優先されていたのは、私の興味や疑問ではなくあなたの満足だったのです、わかるかなオトウサマ。
わかったかと言われたので、うんうんと、今日も教えられ役に徹しておきましたよオトウサマ。
オトウサマ。嗚呼、オトウサマ。オトウサマ。
【カホゴって何? 劣等感のことだよ】
そうやって幼い頃から私が父を甘やかしていたのがいけなかったのか、
父の私への執着は度を超えていて、母方の親戚たちの言葉にはいつもそれについて若干の揶揄が入っていた。その空気も嫌いだった。
「さっちゃんは過保護やけんね」と大人たちだけでなく、なぜか同年代のいとこたちにまでよく嗤われた。
カホゴの意味もわからないうちから、カホゴという言葉は嫌いになった。
私の小学校時代に強いられたひらがなや漢字の練習は、外からはただの過保護、教育熱心。その内実は、
そうねぇ、
まぁ、ちょっとした虐待の域であった。クラクラしちゃうどころじゃない。
その行為は、長者番付に載ったり天国言葉を広めたりで有名な斉藤一人さんのおっしゃる「劣等感を埋める行為」そのままだった、とほんの数年前に知った。
多くの人が自覚も無いままに受け継いで次世代にまた渡してしまっている「劣等感」、それは子供が知らず知らずのうちに植え付けられてしまう「無意識」のこと。
大人は、もっともっと・・・!と「良い子」を期待してしまう。期待してやることが良いことだと思っている。
子供はそれを受け止めようとするから、大人の一瞬のがっかりした表情で自分を無価値だと感じてしまう。
それが、劣等感の始まりね。
褒めてもらうためにはもっと大人を喜ばせないと、とその無意識を自動更新していく。
劣等感を攻撃的な子が持てば、そのはけ口を他人に向ける「いじめっ子」。おとなしい子が持てば「いじめられっ子」。社会に出ればウツになったり。
攻撃的な子はある意味アクティブだから、社会に出ると劣等感をエネルギーに出世することもある。
でもそのエネルギーの正体「劣等感」は自分の心の内側にあるもので、出世や成功のような外からの評価では結局、満たされない。
やがてそのはけ口として部下をネチネチ叱る、あるいは怒鳴りちらすようになる。
それが外でできないと、その矛先は家で、家族に向けられる。弱い子供は良いはけ口。逃すわけにはいかない。
むー・・・・なるほど。斉藤一人さんの話は、ウチを覗いていたのか?!と思うほどに、そっくりそのまま、父だった。
(詳しくはぜひ、斉藤一人さんのお話(劣等感の巧妙なしくみ↓ と、その追伸)をお聴きになられるといい。はっ!と思い当たる人は多いと思います)
【シャリシャリ】
晩御飯が終わると父は、
さぁテレビも消せ、正座しろ、字を書くのに正しい姿勢が保てないなら座布団を何枚か敷いて上体の高さを調整しろ、鉛筆を正しく持て、練習用の紙はいくらでもある、
と自分の洋裁の仕事場にストックしてある製図用紙の、薄くハリのあるシャリシャリいう広い紙を、
シャリシャリと、そしてまたシャリシャリと、30センチ四方ぐらいにまで幾重にも折りたたんで、私の目の前に置いた。
子供に逃げる術はない。シャリシャリという音が聞こえてくると、地獄の始まり。恐怖だった。
逃げなかったことと、そこからつながる長い年月のいろいろを、「自分で選んだこと」という一言でまとめられるか? これまでに何度かそう言われ、絶句し、話す気力も無くしたことがあるのだけれども。
そしてまたつながるのだ、あの特攻隊員の手紙の行間リテラシーへと。
自分にとって、話す気力も無くしているような相手しかいなかったら、死ぬ前に何を書き送るか、書かないのか。
子供の立場の弱さ。大人の力の絶大さ。私は、今、自分の意思でひとりで生きていられることが、本気で心からありがたい。もう、ありがたくってならねぇ。
【シャリシャリ、ハァ】
字の練習はたとえば、「縦にまっすぐ書け。」と、まずうっすらと中心線となる縦線を何本も引かれて、右上から隙間を空けずにびっしりと書かされる。
時には薄い紙の下にお手本を敷いて、その上をなぞる。時には鉛筆を持った手を上から握って手を動かされる。
やっと一面の左下まで行くと、とてつもなくあっさりと、黙ってシャリシャリ新しい面に裏返される。そして言われる、「紙はいくらでもある」と。
あの自主練の "無限" 地獄は、一回につきいったい何時間ぐらいだったんだろう。書いても書いても裏返されて現れる無限の白い面は、絶望の景色だった。
ため息が、思わず漏れてしまう。ため息っていうのは、「つく」というより「漏れる」もんなのだ。
ため息が漏れると、激情された。
急に鉛筆を取り上げ、芯が折れそうな勢いで紙に斜めの線を叩きつけながら、私の名前の漢字を極端に傾けて書き殴って、
「お前がこんな右下がりの汚い恥ずかしい字を書く人間にならんように教えてやっているんだ」と怒鳴られた。
黙って自分の内側を守った。
逃げられない日々の中、「漢字の練習200字」というような国語の宿題が出されることがあった。
それはマス目のついた漢字練習帳に漢字を並べて提出したら、先生がページをさっと見て、よくできましたとマルをくれる、という形式的なものだった。
ノートを「練習した証拠」で埋めればそれですむ、とぐらいに思ってはいませんかぇ?・・・甘いな。違うのです。私も、そう思って生きてたよ、あの小学校低学年の頃までは、な。でも違うのです。
「学校に提出するものは、きちんと美しく書けるようになるまで練習してから、一字ずつ丁寧に並べて、先生にご覧いただくもの」
なのですよ。え?わかりますか?そこの、年賀状を裏表とも印刷で済ましてるあなた・・・。
つまり「公式練習」の前に、大量の「シャリシャリ自主練」が立ちはだかっている、ということ。
目の前の漢字ノートまでが無限に遠い。もちろん、そんな宿題が出た日にゃ遊びにも行けない。シャリシャリと白い面をまた差し出されては、正座のまま書き並べるのです、線が縦横に絡まっているだけの、漢字という名の記号を。
そしてどれだけの苦痛に耐えたかわからない時間が経った頃、「よし、ノートに書け。」と、ノートを手に取り、開き、「練習の第1字目」に進むことが許される。
【シャリシャリ、ハァ、ざーーーっ】
監獄の監視係のような父に見張られながら、やっとノートに形跡の残る「練習」を開始でき・・・、無意識にマスを早く埋めようとスピードを上げてしまったんだったかな、ある時・・・。ああ、もうすぐ終わる、と。
「一字ずつ真剣に練習しようとする気が見えん。そんな汚いものを提出する気か。書き直せ。」
目の前で、ざーーーーっと、やっと書き終わったと思った200字が、消しゴムでみるみる消された。
あっけなくどんどん帯状に白く戻っていくページを黙って見つめるのみ。
一気にぜーんたいに消しゴムの圧がかかるとね、ページってヨレヨレになるんだよね。また、ただ表情を固くして自分の内側を守った。
外からはこれ、虐待と呼んで介入することはできないのだろうな、今でも。けれど虐待です。
とにかく、自分の内側を守るため、私は押し黙って全身を硬くする子供になった。
お前はすぐ人前でもブスクレル、とよく叱られた。表情を固めて内側を守る習性は、今も完全には消えていない。内側を深いところからほぐし、表情を柔らかくしていくことは、今なお私の課題。続行中。
今は、私なりにできる限りの努力をして、やっと恨むでも拒絶するでもなく、ハイそういう父でした、と認めて話せるところまできた。
ちなみに、外部の目には過保護と映った父の父ぶりは、その後もますますの青天井。
ほれ、これでオトコが登場する年頃になってからのことを、考えてみ。ゾッとするやろ?うん、リアルにゾッとしましたよ。以後はおぞましすぎるので、省略。
長い長い努力を積んできて今言えるのは、父のあの性質を、私のこの性質が、助長してしまっただけだ、ということぐらいかな。お互い、ハマったんだね。
父がそれまでの人生の欠落のように捉えて、ためにためてきた報われない部分を晴らすための受け皿、自己憐憫の醸造機を、私が両手に抱えて生まれて来たのだろう。
いやー、ごくろうさん。お互いに、よーやったよ、あそこまで。
物心つく前から食わせてもらっている大人というのは、どうしても大前提として大きな存在だ。
私も幼い頃から、こいつら矛盾した言動を吐くよなー、と感じていたのにやっぱりどこか、自分の方が悪いのだろうと思ってしまっていた。親に良く思われたいのは、生まれ落ちて生きる動物全ての本能だ。
人が集合意識のように抱えている果たせぬ思いの多くは、突き詰めれば、各々が大人に認めてもらえず生まれた劣等感。それは、不足部分の方に眼を向けるよう教えこまれる現代の教育による「恐れ」の現れ。
恐れの連鎖で、新たな恐れを植え付けられてしまっている私たちは、大人になればまた家庭で、職場で、また「良かれ」と思って、「お前のためだ」と心底思いながら、それを繰り返してしまう。
だから、世代をまたいで続いてゆく忖度社会の純粋な被害者などいない、ということだ。
周囲の大人に作られ、教育され、その価値を受け継ぎ、戦闘機のネジみたいに時代の一部となり、次の加害者となってゆく。
若くして儚く散った命とシャリシャリオトウサマとの「イメージ」の差は、その時間軸上のどこで死ぬかという、程度問題だとも言える。
【いっろいろ追悼しとく。】
強く握りしめた鉛筆の圧で変形した右手中指の爪は、50年ほど経った今もそのままだ。爪の生える向き自体も少し歪んでいる。
私は、字がキレイですねと褒められても、嬉しくもなんともない人間になった。キレイとは言えない字の人を見ると反射的に、自由な子供時代だったのだろうなぁ、と思う。
母のことにはここでは触れない(→母の件はこちら笑:「大発酵!ゆるゆるに、ゆるめたろ。」&「発酵中!ゆるゆるに、ゆるし中。」)が、
大きくまとめれば両親は似たものどうし。一事が万事、百万事。
私はずいぶん長いこと逡巡を重ねた果てに、彼らを自分とは違う人種だと思うことにして、この人生において完全に訣別した。
親それぞれがいつ死んだのか、報せは来たはずだがはっきりと覚えてもいないし、微々たる10数万円だったか30数万円だったかの遺産というものも放棄した。
私がもういいと決めてしまったら、本当に、もういいのだ。(前にもどこかで書いたことあるな。)
けれど、行間を読めない人種には、それがわからない。甘えた中2のプチ家出、それも歳とってから発症した出遅れの反抗期、とぐらいにしか発想できないプチな人々で、私の周囲は満ちていた。
とにかく親類縁者、世間、すべてからの誹りを受け入れる覚悟をもって、私は心の底から毎日ありがたく感じていられる「自由」を手に入れた。
この自由の中で見た、あの特攻隊の方々の手紙。あの、本心を書けない美しい文字の建前の行間が、せめて受け取った人にほろほろと読み解かれていてほしい、と思わずにはいられない。
同時に、自分が遺言をあの人種に宛てなければならなかったとした時の虚しさを、今もパラレル現実の中の飛行士の私は、持っている。
いっろいろと、追悼しておくよ・・・
出撃された方々の魂、
空襲で焼かれた命、
生き延びて40代で老害となった父の人生、
遺言に何を書き送るか決めることのできないパラレルの私、
足はしびれ、変形した柔らかい爪が疼いていた幼い私。
その時代時代に、その年齢、性別、その環境で生きる人間それぞれ、どこまでがその人の魂の本質で、どこからが時代や環境に歪められてできたものなのか。
なんで価値観がズレてしまうんだよ、血肉を分けて産み落とし、育て、育てられたというのに。
ズレるなら、ズルズルと一緒にズレていけば楽なのに。
少なくとも、「苦しむ」ことは魂の本質ではないのです。マジで。
タマシイの本質は、「よろこび」です。私は、人と共鳴したい。渇望。
自分の親と深いところで分かち合える喜びを、感じたかった。
今日は8月15日。なんかすごく、風が強いぜ。
静かなのに賑やかな音が鳴り響き続ける田園。
踏切が鳴っていて、ガタゴトと音が近づいて、
(50秒↑頃から)
田んぼの向こうに電車がゆっくり停車する。
気がつけば、それって私が乗ろうとしていた電車だった!
・・・あ!と、録画を止めて、
この距離から走り出して、
間に合うというユルさ(笑)
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=窓際で=
頭痛がおさまった夜 風はまだ強く吹いて
窓際のガジュマルの木は
軋みつつ 今夜も根を張る
いつも ここで止まってしまうんだな
諦めて抜かされるみたいに
競って奪ってまで 手にしたくはない
またひとり手を離し 肩すくめ 見上げれば
あの月につながる
あの月につながる
戦争の飛行機が この街を焼いた夜も
六月の湿った風は
あの月を潤ませていたはず
殺されずにすんだ父と 生き残った母と
身代わりのように透明になった人たちの
つながるところで 呼吸するこのからだ
時折 人肌にさらすなどして
それもあの月が見ている
あの月が見ている
まかせつつも 揺れつつも
あの光の意味を辿る
あの月が気になる
すべてがつながり すべてが過ぎてゆく
歴史と名づけてから 見送る
すべてを許して すべて受け入れて
そして
また ひとりに戻るなどして
月の夜に死にたい
あの月にまかせて
あの月にまかせて
白い骨だけの蒼い世界が
時間にとりこまれてゆくのを
あの月は見ている
あの月は見ている
あの月は見ている
(詞・曲 さち・ド・サンファル!)