大発酵!ゆるゆるに、ゆるしたろ。
【良か話】
先日あるブログで読んだ、お父様が亡くなられてその棺に絵を描かれたというお話、ほんとうに素晴らしい。
ステージが進んだガンのお家での療法、息を引き取られたタイミング、そして棺を絵や言葉でいっぱいにしてご家族が感謝の気持ちを表現されたというお話の一つ一つが、愛に満ちている。
何より、残されたお母様が棺に「楽しく生きる」と書かれたというお話、思わず天を仰ぐ。
そのお父様の、そしてご家族の、積み重ねてきた一日一日が浮かび上がります。素晴らしいお話を教えていただけて、本当に私もありがたい。
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今回は、よそ様のデキた親の良か話を聞いて、かつて自分が所属していた実家のダメ親を振り返る・・・フリして、結局、自分を振り返る・・・つもりが、みんなで各自、振り返る。
これは、「こっちからまず赦す」ところに行きつこうとするプロセスの話だ。
赦すのは、自分のため。自分が楽になるため。
「ゆるす」だもの、ゆるゆるにするのだよ。体を硬くしたまま恨みゴトを言うのではなく。すべてゆるゆるにする、なる。
福沢諭吉が言っていたらしい。人間の感情の中で唯一、前向きに応用できないものがある、それが「恨み」だと。へー。マタ聞き情報ですけど。
ここまでちょっと読み始められた方にとっても、しまいにゃオノレを振り返るヴォイド地点になるとよい。「吸う」と「吐く」の継ぎ目のような。
【赦すこと】
人は生きてきたようにしか死ねない。
天晴れな旅立ち方をなさったお方は、そのような生き方ができた方。そうでない逝き方のヒトは、ま、それはそれ、自業自得・・・
しかし、そう考えるトコ止まりでは自分が先へ行けなかった。もう少し楽な方向に進むためには、自業自得な人たち一人一人の人生の中にも、そのように生きた健気さを見出すこと。
見捨てるでなく、流すでなく、どのような行為も良し悪し無しと、肚に落とす。
それがゆるゆるに赦すということでもあろう。
言うは易し。
赦そうとすると、負けた気分になるものだ。こっちは悪くないのにという「恨み」が邪魔をする。邪魔して当然。それはエゴをもって生きる人間の原理だからね。
だからこそ、その感覚を乗り越えてでもこっちからまず赦そうとしないことには、何も始まらん。のだ。
【想定内すぎる。】
私は実家と絶縁して一人で過ごすようになってから、やっと人生で第一段階の自由を得た。親が死んだのは絶縁後のことなので、詳しいことは何も知らんけれども、とにかく
母はガンをもう手術できないという段階になったかなり最後の頃に、病室で「しょーもない人生やった」と口走ったらしい。
最愛のはずの息子に向かって。感謝とかじゃなく。┐(´д`)┌ ヤレヤレ
それがその後も生きていく人間のエネルギーをどれほど奪っていくかなど考えることもできなかったのだろう。まことにあの母を象徴する、想定内すぎる言動だ。
以前の私はぼんやりと、母は死ぬ時にならないと本当のことはわからないのだろう、などと思っていたが、
ある方が「いや、死ぬ時にわかれば良いほうよ」とおっしゃった。そのとおりだった。母は、死んでもわからんヤツだった。
どこまで信じるかはそれぞれご自由にどうぞだが、複数の "見えない系が見える” 方々がそれぞれ私を見ると必ず言った。
あーやっぱり見えるもんなんだなー(笑)とその都度、感じた。
そのうちの一人によると、死んだ後の母は、しつこく私につきまとうという、あっちの世界ではルール違反となる単独行動をしていたらしい(笑)。
死んでもなお、まだ私のせいなのだ。いや実に、これまた私には実にリアルな、想定内すぎる行動だった。
【地獄か極楽か】
自分は不幸。それはすべて誰かのせい。ため息。
母の世界は一貫したその意識で塗りつぶされたまま終わった。そんな意識のまま肉体を脱いで時間の外に移行してしまった日にゃ、その状態が無限に続いてしまうんだよ。
みんなも、気をつけておくれ。時間の外は、「時間薬」が無い世界。終わらないんだよ、ため息が!気の毒な話だ。
でもそれは、意識による世界の捉え方次第で今、ここを、地獄にすることも極楽にすることもできる、ということでもある。
・・・って、私は「天国」って言わないのだなぁ、と今気づいた。「極楽」の方がなんか、私には体感を伴っている。
【サザエさん超え】
私ら一人一人がオノレを振り返るために、まずある人生を紹介してみますよ。
博多の商売人の長女として生まれた母は、芸事の盛んな博多の庶民的お嬢様らしく歌舞音曲好きで、当時の子供の習い事として一般的だった長唄を習うやら、
勤めはじめた頃のお給料1ヶ月分を上等の三味線にポンと出すやら、その発表会用の良い着物は親に買ってもらうやらと、しっかりなかなかのお嬢様ぶり。昔のマニュアル車の運転免許も持ってたらしいし(驚)。
やがて舅も姑も小姑も付いてこないフリーの夫を手にして、自分の両親の家で暮らすというサザエさん状態。しかも今で言う二世帯住宅。サザエさんも羨む生活形態だ。
おまけに、生まれた娘と息子は、あーた、どっちもいわゆるデキの良い、いわゆる人様にお褒めいただける、立派な体裁の子達だよ。
二人とも国公立の小中高大、大学院までストレート、自宅から通うという、最も安上がりにして、大好物な「高学歴」のホマレありあまる、コスパの良い出産。
息子なんて、完全に母の好みのとおりの、いわゆる3高よ。息子の体格が良くなってきた頃なんて、ああ大きゅうなった、強よなった、と、もー、よろこぶ、よろこぶ。
でしゅでしゅ言うだけでまだ未来のわからんタラちゃん1匹のフグ田家には「勝って」いたはずだ、他人と比べてナンボの母の価値基準では、な。
【壊れた走馬灯】
結婚したくてもできん人だっておるのにちゃんと結婚できて、フリー夫は浮気することもなく、
子供欲しくてもできん人だっておるのにちゃんと産んだと胸を張れて
(「私は産んだ」「産めなかった」っていう、一部のオナゴ独特のアレな。
マウントとる方もとる方だが、とられる方もキレーにとられる、アレな)、
親が早く死んで苦労する人だっておるのに
(身近な該当者は自分のフリー夫だよ)、
両親ちゃんと年取るまで一緒にいて、痴呆ぶりも介護も平和に程よい程度で、
住むところもあって、
・・・フッツーに恵まれてますやん。
これで死ぬ間際に自分の人生しょーもなかったと吐き捨てるには、もう人生の走馬灯が故障するほか、あり得ない。
世界の捉え方がすべて。
母のブラックな走馬灯に映っていたのは、
・腹違いの二人の兄たちが厄介だった
(ん?ずっと昔にもう法的にも縁は切ってますやん。タマ〜にやって来た時も、アンタ非対応で、フリー夫が穏やかに追い返してくれましたやん。→むしろステキ。)
・フリー夫の稼ぎがイマイチで、贅沢できなかった
(ん?30万ぐらいのアップルコンピュータ、ボケ防止にってポロッと買うてきてましたやん。使いこなせずすぐ廃棄してたけど。→気まぐれリアじゅう。)
・娘が大学院まで行ってしまって "アタマが良くなりすぎたから"、 親の言うこと聞かなくなったから、そのせいで老後が全然楽しくなかったから、自分がガンになって治らない
(→ん?・・・おいおいおい)
というような破綻した論理ぐらいかな。
あと、私だけでなく、結婚している弟にも子供はいないらしいから、
・自分の妹たちには孫がいるのに自分にだけいない・・・
という点もあの人には埋められない欠乏感だったろう、ほぼ間違いなく。
オノレの人生の、どこに目ぇ付けとんねん、って話だよ。
そしてわたくしがここでいちばん申し上げたいのは、母の人生は単なるわかりやすい一例として出しているだけであって、
現実問題、そういう目の付けどころを完全に間違って生きている人って、フツーに多いんぢゃないのか?ということです。
なぜなら、世の中の多くの人々が非常にネガティブで不安定で、「恐れ」という脅しに乗せられて流れていってるからです。
母はつまりは、世間の多数派、サンプル1の一般人。常に私が実家の中で異端として扱われていたのも、道理ではある。
【ギャップりよつ】
・・・ある時、今からほんの数年前のこと。
一つの質問について、同時に数人がアカシックリーディング(つまり ”見えない系が見える” タイプの、情報の捉え方)で見てくれるという場があった。
生前の母の私への態度について尋ねると、その人たちは口々に同じようなことを言った。
感じていたとおりの、とてもとても腑に落ちる説明だった。でも「それを、赦すのです」と言われても、そのゆるし方がわからなかった。
「赦す」というゴールの理想的な心理状態と、今現在の心理状態との間にあるギャップ。
とりあえず辿り着いたのは、そのギャップとギャップりよつに組んで、無視せずボチボチ見つめていくしかないという、諦めみたいな中継地点だ。
【スピは全て非科学的か?】
ギャップりよつに組むのは、めんどくさいことだ。でもここまで辿ってきた流れからは、避けていては自分が楽になれない。
ギャップりよつは、ゆるゆるになっていくプロセスとして、「前向きに諦める」ための大事な体勢なのだ。
ついでに言うと、そしてざっくり言うと、ギャップを詳しく見ようとしない人の多くが、意識とか ”見えない系” とかのいわゆるスピリチュアル的テーマを拒絶するタイプの人なのではないか・・・と、おれは感じるぜ。
そゆ人たちの態度というのはたいてい、
「あーでましたスピ系ねーハイハイ・・・」
と仲間と一緒になって小馬鹿にしていたり、
お花バタケだとか、カガクテキ根拠に欠けるとか言いながら、ワカッテルふうなすまし顔をしていたりで、
なんと言いましょうか、そこにいつも
自分に「世間」みたいな感じの強い味方がいてくれてることを前提とした群れの空気
が感じられるのは、なぜかな。
むしろしっかり対峙して、非常識人たちを説き伏せるなり、言い負かすなりしていけばスッキリするだろうに。
お花バタケな種族を根絶するくらい、論理武装できてる人なら赤子の手をひねるように簡単なはずだ。
なぜ、そんなトンデモを遠巻きに敢えて生かしとくんだろうか。馬鹿馬鹿し過ぎて ”赤子の手ひねり” する価値も無い・・・のかな。
ホントにそうか?ホントにそうだろうか?
・・・しかし、アカゴノテヒネリって、慣用句を勝手に名詞化してみたら、なんか山道に咲いてる花の名前とかでありそうね。
私にとっては、ここで言ってる意識の持ち方も、"見えない系” の情報の捉え方も、さらには波動の話なんかも、非科学的どころか、
むしろ微細な違和感を無視せず、すべてすべての何もかもに整合性を求めていくとやがて帰納していく、非常に合理性の高いリクツなのだが。
【呼びかけ】
・・・呼びかけますよ。
オノレとギャップりよつに組もうとしない人たちよ!
つまり
"非科学的とされている" ことなんて信じてませんよと表明していないと、漠然と世間から仲間外れにされそうな不安感・・・を持って、自分の心の微細な部分を無視している人たちよ!
つまり
私の母親のような多くの人たちよ!
どうぞ、誰にも言わなくていいから、一人の時に、自分の中のギャップをそーっと認めて、しらばっくれた顔のままでいいから、内側ではそのギャップをじーんわりと見つめてやってくださいませ。ゆるゆるにゆるみ始めると思うよ。
そりから、もう一種の、
自分はジョーシキ人だと信じて疑わずに(or 疑いたくなくて目を背けて)ここまできた人たちよ!
どうぞ、さらっとヒトを「過ぎたことなんだから、もういいじゃない」とたしなめるのはやめてみておちょんまげ。
もういい歳なんだから、とかも。いつまで昔のこと根に持ってるの、的なヤツとかも。
「たしなめ系」の態度はみな同じで、自分は道徳的なつもりなので、悪気が無いぶん、罪深いでず。
それは「もう大人にならなきゃ」的な世間的圧力をもった無意識的暴力でず。ヒトの微細なギャップを見つめる心を潰してじまいまず。その人はせっかくギャップりよつで立ち止まっているのに。ゆるゆるになろうとしているのに。
そういうたしなめ系の人もまた、実はオノレの心の中のギャップに気づいていなくて(あるいは、気づきたくなくて)流そうとしてしまっている人たちなのだと思いまず。
気づいてないふりして通り過ぎたい自分が、気づいてる人の姿を見せられると違和感を感じるもんだから、なにかと相手を変えようとして「たしなめて」しまう・・・のかもじれまでんよ。
違和感を感じた時に変えるべきはいつも、自分なのに。
違和感は自分を変えていけるサインなのに。
【大発酵!発酵大オード!】
「恨み」の感情は役に立たないからこそ、そのままの塊を流して詰まらせたりしないよう、ギャップを見つめてほぐして溶かしてゆくしかない。
「ほぐして溶かす」のは、微生物が発酵、分解して水に戻していくようなプロセスだ、きっと。最近、麹を使っていろいろ発酵させているので、すごくリアルに結びつく。
進んでないようで、条件さえ揃えば着実に分解されてゆく。以前より実りある方向に。
何よりも自分の感情を優先させて、その違和感を見つめる。自分の中でしつこくしつこく、その恨みの感情のコンコンと湧き出づる傷に手を当てて、
抱え込んできた感情と、それまでの自分を、まずは自分で認めてやる。分解。やがては水というスタート地点、源に戻ってゆくプロセスのこと。それが発酵、熟成だ。
発酵と腐敗の違いとは、人間に役立つかどうか、という点のみ。「恨み」というのは、アレだな、腐敗した感情のことだ。腐敗させないよう、深呼吸を忘れず、源に戻る道の上で、豊かになってまいりましょう。
それが、生きている自分自身への、オノレの義務やおまへんか?どや?
発酵って、いいよねー。
姉妹編(後編扱い)の「発酵中!ゆるゆるに、ゆるし中!」もどうぞ。