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父の詩集の表紙絵について

曽宮一念という画家をご存知でしょうか。明治26年(1893)〜平成6年(1994)静岡県富士宮市で101歳の生涯閉じました。東京文化財研究所のアーカイブには「奔放な筆触と大胆な色調による独自の風景表現を拓いたが、昭和40年には緑内障による視力障害のため国画会を退会、同46年には両眼を失明し画業を廃した」その後は、短歌や詩や書に親しんだとあります。

1970年代、父は、井上靖氏の詩集を見て、曽宮先生に「自分の詩集の表紙の絵を描いてもらいたい」と考えたようです。けれど、木曽谷の中で、ひとり孤独に詩を書く父のために、高名な曽宮先生が絵を描いてくれるでしょうか。父が絵をお願いするに至った経緯を、父の手で書いたものがありましたので、以下に綴ります。昭和の文学を愛する人たちの、純粋な時間が流れるエッセイになっています。また、小さな小さな支流から、本流の曽宮先生の人となりもお伝えできるエッセイであればと思います。

※文中に出てくる中彦旅館は、木曽川を眺めながら滞在できる昔ながらの旅館で、わが家の隣にありました。私の子ども時代にはすでに宿泊者はあまりいなかっただろうと記憶していますが、いつもきちんと着物を着た年配の女将さんがひとりで切り盛りしていました。現在、その場所には企業の社宅が建てられています。

「風雅の魔神なるべし」 −   瀧野咲人さんとの思い出 −  佐佐木政治 かおす57 (1986年9月) より抜粋しました

あれは、何の偶然であったろうか。瀧野さんの二度目の来訪があった時、東京の木耳社の社長、田中嘉次さんの来訪とがばったり一致して、私は、玄関先でお二人を紹介したことをおぼえている。そのときは、お二人とも一泊の予定とのことで、私は隣家である中彦旅館へ案内した。

その夜、三人で酒を酌み交わしながら、しばらくは雑談をしていたが、田中社長が持参した自費出版の曽宮一念氏の画集が話題となった。私はすぐさまその絵の魅力に強く引きつけられて、それを一冊分けてもらうことにした。龍野さんもその絵には異常な興味を示されたようであった。

そのとき、テーブルの上の私のタバコの箱とライターが邪魔になったので、それを私がのけようとすると、田中社長が一本所望ということで<長年の禁煙を破ることになるが>と前置しておもむろに火をつけてくゆらせはじめたのである。龍野さんと私があっけに取られてそれをみつめた。田中氏は機先を制するように<いや、大丈夫ですよ、断食もやり通したくらいだから、意志は意外に固いですよ>といわれるのである。すると、その煙が意地悪くも龍野さんの顔ばかりへふりかかるので、龍野さんはそのたびに、左右の手をあげて、それをふり払われる格好で、顔をしかめられた。私はその龍野さんを見て、その夜はとうとう一本のタバコにも火をつけずじまいになった。

作家で詩人である井上靖さんの第一詩集『北国』が、ずっと以前に新潮社の文庫で出た時のカバーの絵が、たしか曽宮一念先生のものであったことを私は記憶していたので、こんなにすばらしい絵で詩集が出せたらいいですね、とつい口をすべらせてしまった。田中氏はやっとふかし終えた一服に満足した面持ちでそれを灰皿にねじ込んだ。氏は仕事の関係で時々、曽宮先生のアトリエを訪れるという。かたわらでお仕事を見学することもあるが、コンテやパステルで素描されるものが少しでも気に入らなければ、くしゃくしゃに丸めてかたわらのくず籠へポイと捨ててしまうから、その一枚でもと思うが、先生の眼がにらんでいてそれは絶対にできない。正式に絵を発注したところで、それがいつ仕上がるかは見当もつかない。ましてや気に召さなければ、金をいくら積んだところで描いてはもらえない。

田中氏は酔眼朦朧としてきて、そんなことをポツリポツリと話される。私は次第に大それたことを言ってしまった気がして、少し憂鬱な気分であった。その夜龍野さんは終始聞き手に回られていたようであった。

翌朝、田中氏は早い汽車で名古屋へ向かわれた。龍野さんは私の記憶に間違いがなければ十時半頃のバスで飯田市へ向かわれた筈である。飯田でたった一人の仏師(彫刻師)がいるとも言われ、ついでに陶芸家の水野英夫さんを尋ねたい由を昨夜お聞きした筈である。まだ時間があるので、色紙を一枚書きましょうと言うことで、硯と筆は旅館のおばさんから借りることにして、私は自宅へ色紙を取りに戻った。

未来は新鮮で深い
その奥にあなたがいる
すずしい壺を運ぶ
あなたがいる
      咲人

色紙の裏側に小さな文字で「1975年3月 中彦ホテルにて」とあるのは今気づいたことであるが、美戸野にたった一つ残された龍野さんの足跡であり、遺品でもあって、私は今も、それを大切に保存している。
この詩が、龍野さんのかつての詩集に収録されている作品の中から取られた一節なのか、全く私に宛てて下さったオリジナルなのかはわからないが、私としては後者であって欲しいと願わずにはいられないのである。

それから一年も経ない内に私はもう一度龍野さんの来訪を受けている。思えば、龍野さんとお目にかかることができた最後の機会でもあった。
実は二度目にお会いしたときに、龍野さんもご一緒した木耳社の田中社長から、あれからまもなく私は一通の手紙を受け取っていた。手紙の内容が、曽宮先生に会わねばならない用事が急にできて、先生にあなたの話をしたら、その詩人の作品を見たいということだから、大至急作品を送られるとよろしい。とのことで、先生のご住所まで書き添えられていた。私は予期もしなかった突然のことに驚いたが、むしろ、私の作品などみてがっかりされるであろう曽宮一念先生のお顔を想像しながらも、田中氏の勧告に従うこととなった。

それでもかすかな期待を抱きながら半月も経った或る日、木耳社のサインがある灰色の大きな封筒が届いて、中からパステル二調(黒と茶)の、あの曽宮先生独特の線描の絵が現れた。ISのサインもあざやかに、印刷の場合の位置までがエンピツで余端に描き込まれていた。

田中氏からの添え状は、私の心配のもう一つをも霧散させてくれた。先に田中氏が来訪された折、過日、文芸春秋社の画廊で、これが最後(失明を予想して)と思われる曽宮先生の個展が開かれたが、その時は一点平均○十万円で、静岡にいる或る財閥氏が買い占めた、ということを聞かされていたからである。曽宮先生への返礼として提示されている金額は、まさにそれの十分の一に満たない額であり、先生はあなたからそれ以上は受け取らないでしょう、ということであった。

私が、龍野さんに、この事でおたよりを差し上げたのはもちろんのことであると思うが、それからしばらくして龍野さんがひょっこりとお見えになったのである。

とうとう夢が現実になりましたね、と龍野さんはにこにこされながら私の仕事場に来られて、そこで曽宮先生の絵とご対面なされた。その夜も、龍野さんは美戸野で一泊され、翌朝ふたたび私の仕事部屋に来られた。その日、龍野さんはしごく上機嫌のようすで、<マイツィン、マイツィン>と唄うように誦まれながら、<佐々木さん、マイツィンなんですよ>と言われるのである。<これはフランス語で《私の罪》というのです。今度出る、私の短編集の題名ですが、カバーの絵は脇田和さんにお願いしようと思っています>

龍野さんがいかなるときにも保持されようとするあのロゴスの世界が危うく均衡を失いかけていると思われるほど、そのときの龍野さんは浮き浮きとしてパトス的であった。

それからしばらくして龍野さんからは、小説集『私の罪』が、画家脇田氏のすばらしい紫の衣裳を着せられて私の手許に届いた。

しかし、曽宮先生の装丁で出る筈の私の詩集『他国』は、いまだ未完のままで、私の貧しい書架に眠っているのである。龍野さんからも、『他国』についてのおたよりを二度ほどいただいたままである。印字機も印刷機もすべて整っている。出そうと思えばいつでも出せる。しかし私の意志は、かたくななほど動き出そうとはしないのである。

あれからの私は、曽宮先生の絵のすばらしさに封じ込められてしまったというのでもあろうか。次々と3冊未完の詩集を置き去りにしつづけているのである。

中略

野ばらが香りはじめたある日、外出から帰った私の部屋の机の上に、一通の黒枠のはがきが置かれていた。それは、だれもいない部屋の窓からの木漏れ日を浴びていた。私の心にシーンと水が打たれた。やっと龍野さんからの消息が届いたのである。しかもすべて他の人の手によって、今やっと龍野さんの言葉が運ばれてきたのである。

最後にお目にかかった日の、あの日龍野さんが何処へ向かわれたのか、妙に私の記憶が消されてしまっている。或は、直接小諸石峠のご自宅へ帰られたのかもしれない。汽車で帰られたことは確かである。駅までご一緒しましょうという私を制せられて、龍野さんは、玄関先に立つ私を一度だけふりかえられて、永遠に、この美留野の街角を曲がって行ってしまわれたのである。

・・・・

昭和の片田舎に集う文学壮年達の時代と雰囲気を、少しでも感じていただけたでしょうか。父は晩年、曽宮一念氏の絵を表紙に、最後の詩集を手作りしました。認識障害を患いながらも切り貼りした詩集。もう一度、美しい装丁にしてあげたい思います。





亡父の詩集を改めて本にしてあげたいと思って色々やっています。楽しみながら、でも、私の活動が誰かの役に立つものでありたいと願って日々、奮闘しています。