
食べある記)博多空港のお寿司でふるさとの海を想いだした話。
出張で福岡へ行って、お寿司で少し感動した話です。
前泊できたため仕事を午前中に終え、少し街を歩いた。南九州出身で幼いころに博多を旅行したこともあり、少し懐かしかった。
お腹も少し空いたし、空港で小一時間ほどできたしで、空港内の第一玉家寿司さんでお寿司にすることにした。いつだってお寿司は美味しいし。

せっかく博多に来たので、地魚の握りにする。できるまでの間、お通しと軽く日本酒とする。丁寧に処理された魚の腸のコリコリと柑橘系の酸味ともみじおろしの辛味の調和を楽しむ。これは日本酒に合う。日本酒が進む。

ていねいに握られたお寿司は美味しい。一貫一貫噛み締めながら、日本酒を進める。日本酒を飲みながら思い出す。
初めて博多駅に降りたとき、なぜか「ここが世界の中心か」という謎の高揚感に包まれた覚えがある。それくらいのインパクトが、まだ幼いころの南九州出身の自分にはあった。ワンコインの博多ラーメンを食べて、「大都会なのでこんなにおいしいものがあるのだ。しかも安い」と感動した。
ここで日本酒がなくなったことに気づいたので、追加注文する。


一つ目とは別の日本酒にする。ごまさばもあったのでそれも頼む。
さすがに九州の鯖。味も濃くて弾力もあり、美味しい。鯖はごまさばで食べるのが一番美味しいと思うが、サバは足が速いので、どうしても九州でないとなかなか美味しくいただけない。
とびきり美味しく、日本酒が進む。進めながら、博多に感動したあの頃の自分を思い出す。
今でも博多は好きな街だし、九州の中心といえば博多とも思う。ただ、南九州の人間の感覚的には「地元を出て都会」といえば、博多の次は東京になる。大人になり、東京に住むようになって、世界の中心が博多とはもう思ってはいない。かと言って東京が中心とは思っているわけでもないが。
というよりもそもそもなにかにインパクトを感じることがなくなったのだ。博多ラーメンはいつだって美味しいが、もはや感動はしない。
"美味しいけど、感動まではしない"
いつからかそうなったのだろうか。あるいはなってしまったのか。心はぼんやりと凝り固まっていくのか。それでもお寿司は美味しい。美味しいのだけれど、次第に感動しなくなっていっている。気がする。でもお寿司はやっぱり美味しい。
日本酒がなくなったので、追加する。


ごまあじも足が速いので、九州で食べたい。九州にいるので注文する。鯖も美味しいのだが、鯵も美味しい。懐かしい気もする。
父が釣り好きで、毎週のように釣りばかり行っていたので、食卓には毎日のように鯵が並んだ。今となっては贅沢な話でもあるが、幼心にはウインナーのほうが嬉しかった。いまは魚が美味しいと思うようになった。
日本酒とお寿司と。たいへん美味しく、とても満足した。最後に地魚を少しつまんで締めることにする。

磯で獲れた魚であり、関東の魚にはない風味がある。どこか洗練されてない気がするが、これがしみじみおいしく感じるのだ。なんだか締めにふさわしい気がした。なんだかなつかしい気がした。
これはなんだろうか?
しばらくじっくり噛んでいると思い出した。子供の頃に父が釣ってきた魚の味に近い。やはり、おいしいのだと思う。
それもそうだ。魚は住むところのエサを食べるので、場所が違えばエサも違う。結果、同じ種類の魚でも、住むところが変われば少しずつ味も変わってくるのだ。東京や東北で食べる刺身やお寿司も美味しいのだが、初めてきちんとしたお寿司を食べることができるようになった頃、それができるようになったことを嬉しく思いながらも、どこか違和感を感じていた。が、いつのまにか違和感はなくなっていた。単純に美味しく食べられるようになっていた。
磯の魚ともなれば、より土地の味が強くなるのだろう。あたたかい九州の海と関東以北の海では植生も違う。むかし感じていた違和感の正体が分かった気がした。
しみじみおいしい、なつかしい。福岡と南九州の海も違うのだろうが、これは間違いなく九州の魚の味だと感覚的にわかる。なぜならおいしいのだから。
だが同時に南九州と北九州の魚の味の違いはもう自分にはわからなくなっているのだとも直感する。ふるさとは遠くにぼんやりとあるものになってしまっている。あるいは遠くにぼんやりと見えているのは蜃気楼であり、実際にはふるさとではなくいつの間にか虚像をみているだけになってしまっているのかもしれない。もはや実体を直接見ることはできなくなっているのかもしれない。
ぼんやりとそのように思ったとき、うれしいのか、かなしいのか、それともさみしいのかわからないまま、いつのまにか視界まですこしぼやけてきていることに気づいた。
おしまい。
↑今回行った店はこちら↑