この世に真理があってもなくても 2023/02/25 雑日記
話の種
理系的文系の調べが好きな件。文系的なことに法則性を見出したり、理系的なことに人が及ぼすイレギュラーを見つけるの楽しい。
豊かな社会でけつを叩いてもらう方法(宗教、社会的圧力など、いろいろな方法があるわけだが)
一日48時間欲しい、って感覚、どういう心理構造なんだろう
統合感覚という自分の中での新しい概念。動画と音声とハプティックフィードバックと
銭湯、サウナ帰りの曲のせいで銭湯ロスが半端じゃない!!!!うわあああああああ!!!
ってかその日考えたこと書いてばっかで全然その日何したかの日記になってなくね!いや、全然なんもしてないか。実際。ドラクエ11進めたり。でも今日は話の種がなかなか育てがいがありそうなので結局また今日起きたことの話はしなさそう。
AIで文系、理系の壁が壊れる
そもそも文系、理系の壁とは?
これは個人的に今日思ったかなりぶっ飛んだ話。色々な背景の説明をしないと意味不明になるので説明する。まずは文系、理系の本質的な違いについて。これはかなり昔に東浩紀さんが言っていて、あーーなるほどぉと思った話。
理系は、"反復可能"な現象を探求する学問。リンゴの軌道、物が温まる法則、時間の流れの歪み、などの再現可能な法則を見つけて、応用するのが一般的な理系の共通点。(もちろん自分は専門家ではないので細かいところはほぼ確実にどこか間違っている。)それに反して、文系は"反復不可"な現象を研究する学問になっている。あの時、李朝はどう思ったのか、信長はなぜ裏切られたのか、アメリカのポリコレの波に日本人は答えたらいいのか、などのものであろう。いや、法律とか哲学とかも文系じゃんって言われたらまぁそれはそうだけど、なんとなく"反復不可"な感じするだろ!そこは問題じゃない!そもそも、この反復の可、不可という分離に限界があるんじゃないの、というのが自分の言いたいことなのでむしろさっきツッコんできたあなたは私側だ!
なぜ"反復不可"も"反復可能"も""で囲っているかというと、もろそこの区切りが今揺らいでいるからだ。まずは理系の反復可能性の穴から見ていこう。
理系は本当に反復可能なのか
そもそも、そして少し昔から言われていたのは、全ての科学は、明日全ての法則が間違っていたことになる可能性を秘めている、と言うことだ。いや、スピリチュアルでも陰謀論でもなく、科学哲学というジャンルがもろその問題を真剣に熟慮しているのだ。わかりやすい例えで言うと、僕たちが牧場に飼われている鶏だとしよう。毎朝、牧場主は素敵な笑顔で挨拶してくれる。あ、つまりこの牧場主はいい人なんだ。自分たちには無害なんだ。もちろんそう思い込む。生まれた時からずっとそうなんだから。しかし、ある日、その牧場主は僕ら鶏一家をいきなり惨殺しに来る。こんな話、人間である僕らからしたら当たり前だろう。しかし、鶏として生まれていたらこう思わない手はない。どれだけ嘴で突いてもポーカーフェイスで態度を変えない牧場主だとしたらいよいよ僕らの手で牧場主の真の目的も何もかも知る方法はない。つまり結局科学は絶対ではない。これで理系の反復可能性は多少は揺らぐだろう。ただやはりまだ少し強固に見える。
文系は本当に反復不可なのか
では次は文系の反復不可能性の揺らぎに注目してみよう。今まさに、ChatGPT、Bing、そして2日前にMeta社の今までとは比にならないほどの量のデータを有したチャットAI一般利用されようとしている。生々しすぎて恐ろしいほどに現在進行形で、僕らは今AIの進化を目にしている瞬間にいる。その過程で避けては通れないのが、人間観の再定義である。(ここで言う人間観というのは例えば、どこからが人間なのか、人間は特別なのか、そういった僕らが僕ら人間を捉える、いわば超大きな単位の自己認識の話である。どこからが人間なのか、人間は特別なのかは、言い換えれば、いつどの瞬間に僕は僕になるのか、そして僕は一体どこに位置づけられるんだ。この例えをすると人間観を考える上でめちゃくちゃ役立ちそうなので一旦メモとして保存して、また明日考えよう。)えーーっとなんだっけ人間観の再定義か。そうそう、何が言いたかったかと言うと、僕らにすごく似た物体が現れたら、いやでも僕らがなんなのかを考えざるを得ない、という話。だから人間観の再定義とか言っても、別に変わらなくてもいい。ただ、変化しないといけないのでは、何かしらアップデートしないといけないのでは、とどうしてもよぎってしまう。そして、今、とある国で開発された確率算出機がパソコンの表面に弾き出す文字の羅列を見て思う。人って本当に反復不可なのか?人に法則ってあるんじゃないのか?つまり、全世界ではなく、人間に限ったラプラスの悪魔は想像以上に当たり前に存在できるんじゃないのか?各個体が持つ遺伝情報、培う体験の記憶、それらを観測できれば簡単に人間は反復できるんじゃないのか?感情の法則、態度の法則、人の法則、進化の法則、遺伝子が環境に適応する法則。あれほど精巧な、人から生まれたような文章を排出するための法則がわかるなら、上記のような法則もいつか夥しい行数の、それこそ人の頭では想像できないほどの計算の末に辿り着いてしまうのではないかと迷妄してしまう。軌道を戻すと、現時点で、計算機は人が生み出す文と見間違うほど柔軟な文を弾き出せる。それは人間の、そして文系が語る"反復不可能性"を打ち砕くことにはならないだろうか?
問題のまとめ
これらを全部一括りにまとめると、「森羅万象全てに法則があるのか、ないのか」問題になると思う。「"Theory of Everything"があるかないか」問題と言っても差し支えないのかもしれない。鶏と牧場主の例えでいうと、その牧場主の行動には例外のない、完全に予測できる行動パターンがプログラミングされているのか。みたいな感じ。この言い方をするとまさに「神の法則」のような印象だが、それがあるのか、ないのか。と言う話をしてきた。
感想
いつか人間の、そして全ての反復不可能性が本質でなくなり幻想として砕け散った時、僕らはどのような人間観を得るのだろう。自然や宇宙はどこまで僕らを見下すのだろう。そして、全ての反復可能性が失われた時、個はどこまで崇高になるのだろう。我々は外界をどこまで軽視するのだろう。
僕には直感的にどちらの世界線も等しく醜く映る。どちらに転ぶのか明らかになることが問題なのか?その探究をする過程を楽しむ程度が人間程度にはちょうどいいのかもしれない。
ひとまず自分はその双方のレンズを使いこなして世界を見続けようと思う。
自分は最近思考がふわふわしているから整理された会話が得意な理系よりの友達と話す機会を増やそう。
毎日こんなに書いてたらもうちょっと整頓されてくると思ったんだけどな、、笑 なんか書く習慣が付く前よりもぶっ飛んだ世界まで飛んでる気がする、、笑
じゃあ、また。
斎家リック