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私にとっての「依(よ)りどころ」
〔毎月発行〕さいほうじの読みもの-短編法話『 世間解(せけんげ)』2025年2月号
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二月になりました。皆さまにはご本願のおはたらきの中「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」とお念仏ご相続のことと存じます。
年明けから「寒いなぁ~」といいながら過ごす日が何日かありました。しかし、大阪は「寒い、寒い」というているだけで済みますが、雪深いところほど若者が少ないという厳しい現実があり、雪の地域の皆さんは本当にお大抵でないだろうと思います。
正しいものに遇う
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
『歎異抄』というお聖教に伝えられている親鸞聖人のお言葉であります。
行信教校をお創りくださった利井鮮妙和上は、善導大師の「散善義」という
お聖教や親鸞聖人が「阿弥陀経和讃」にお説きくださる「五濁悪時悪世界」というご法語を
「悪いものが、悪い時に、悪い処に生まれてきたのだな」
とお教えくださっています。
他のどなたでもないこの私自身のことであります。「悪いものが、悪い時に、悪い処に生まれてきた」からどうしようもないのではありません。だからこそ正しいものに遇い、正しいものに育てられ、正しいものを心にかけさせていただかねばならないのでしょう。
一時ひと時が、掛け替えのない節目
今年は、昭和が百年。広島と長崎に人類が原子爆弾を炸裂させてから八十年。阪神淡路大震災から三十年…。色々な節目の年であります。私たちの上に時は流れ続けています。本当は節目節目に過去の出来事として思い出すのではなくつどつどに思いをはせておかねばならない事柄ばかりなのだと思います。その意味では、毎日毎日が、一時ひとときが掛け替えのない大切な節目なのでしょう。
「ああ、そうだなぁ、そうやったなぁ…」と、私は、大きな節目節目にしか改めてものを考えることが出来ないぼんやりした人間なのだと思います。
しかし、それを棚に上げて申しあげることをお許しいただくならば、節目があってくださるからこそ、流されて生きている私でも立ち止まって、振り返って考えることが出来るのでしょう。
〈いけらば念仏の功つもり、しならば浄土へまいりなん〉
昭和からの百年でも、色々な自然災害があり、人は数え切れない災いを作り続けています。考え続けることの大切さと考え続けきれない浅はかさ。
節目節目があってくださるからこそそこに色々な感懐が生まれてくださいます。
〈いけらば念仏の功つもり、しならば浄土へまいりなん〉
法然聖人のお言葉であります。
“いのち”恵まれている間はお念仏を称え、お念仏に聞き、めぐまれた“いのち”を大切に大切に生ききるんだよ。お念仏さまに育て続けられるんだよ。どれほどなごり惜しくても、臨終を迎えねばならない時がくれば、それはお浄土へ生まれさせていただくご縁として有り難くいただくんだよ。
お念仏さまが、この私の日暮らしを、生と死のすべてを、この私の“いのち”全体を支え育み続けてくださっているのですよ。
というご法語でありましょう。
阿弥陀さまの本願力によって私から出てくださる「なもあみだぶつ」というお念仏さまは、私の生と死をどちらも尊い意味あるものとして包み輝かせてくださっているのであります。
私にとっての「依(よ)りどころ」
お念仏は色んな節目を超え、包んで私に届き続けてくださっています。
私たちは人間の持つ愚かさと、それに気がつく心の豊かさを、私の日の越し方を〈お念仏さま〉に聞き続けさせてゆかねばならないのだろうと思うことです。
お念仏さまは依り所であります。
自分自身も、自分を取りまく周りの人びとや環境は、常に移り変わっています。その中でただ一つ変わらずに、間違いなしにあり続けてくださっているものが「なもあみだぶつ」というお念仏となって私を育み、育て続けてくださっている阿弥陀さまのおはたらきであります。
節目節目にしか改めてものを考えることが出来ないぼんやりした私をお念仏さまは支え育み続けてくださっているのであります。
〈念仏のみぞまこと〉なのであります。
合 掌