「SL銀河」運行終了によせて
汽車の姿が完全に消え、橋の上が闇に包まれた瞬間、どこからともなく拍手が沸き起こった。自分の中では「ああ終わった…」という安堵の感情だった。無事に終わってホッとしたような、肩の荷が下りたような。
だが、違和感は消えなかった。
運行終了の報道が出てからと言うもの、毎日がお祭りだった。他県ナンバーの車が行き交い、三脚が線路端に立ち並んだ。
この10年あまりで、何度となく「復興支援」という言葉を聞いた。それらの活動に心を揺さぶられた者や、それらによって人生が変わった者だっている。
中でも、この「SL銀河」は動いた費用の規模で言えば、ハコモノ的な行政のプロジェクトを除くけばトップクラスな規模だった。
・・・
数十億という予算を投じて、四十年ものあいだ公園で眠っていた機関車に魂を吹き込むということが、どれほどのことか。
千年に一度の災禍が起きると、そんな奇跡のようなことが起きるのかと、当時高2の僕は思った。
・・・
ラストランの夜、雨上がりの暗闇の中に汽車が消えた瞬間、復興という坂の頂点が見えたような気がした。
と同時に、ああ、この十年は「復興支援」という”お祭り”だったんだな、とも。
ここまで書くと、
なんとなく違和感の正体が分かった気がする。
毎週末の定期運行という復興支援が終わることが、震災後の新たな日常を変えられるようで、外部の誰かから、「復興は既に成立した」と捉えられたようで。
いち被災者に「そこまでして汽車を走らせる意義は?」と誰かに突きつけられているようで。
震災はね、過去のもの、と。
現在進行形の被災地の当事者たちに向けた、
震災は「過去完了」ですよね?
…という確認作業なのかも知れない、と。
めがね橋の上で鳴らされた長い長い汽笛は、
「もういい加減、前を向いたらどうだ」という誰かから投げかけられたメッセージに聞こえた。
遠い向こうの誰かからの問いかけに、
僕はまだ答えられない。
でも、
いま考え続けていることを
やっとのことで絞り出すならば、
とでも、言うしかない。
・・・
同時に、
このような企画モノでしか、
この国のローカル線は生きていけないのだろうか?
とか、
育ちつつある運転士や保守の人材はどうなるのだろう?
地方の鉄道を観光資源としか捉えることができないこの国で、蒸気機関車という存在はこの先、どう扱われていくのだろうか?
という疑念が浮かんできた。
あの日から、まもなく1週間。
ずっと、ずっと、そういうことを考えている。