ようこそ、風の世界へ 岩手の野球少年たちは、毎年7月の高校野球中継に夢中になる。 ここ数年はスマホを握りしめ母校の活躍や、スターの卵たちを目の当たりにすることもできるようになったが、10年前とかっていうのは、テレビの液晶の向こう側の世界だった。 とりわけ、夏の大会で自校が県営のクジを当てようものなら「白球ライブに映る!」と小躍りしたり。娯楽が少ない岩手では、夏の大会は初戦からテレビ中継があったのだ。 今や海の向こうのスターも、憧れのプロ野球チームの選手も、その場所で試
2024.10.13(日) また暗いうちに出る。この生活も3日目になると、なんとなく体が慣れてくる。コンビニで地方紙を買い、駅に向かう。隣りの県から総理が生まれた報道が、まだ紙面を賑わせているようだ。 高架のホームにはまだ列車は来ていない。朝の息を思い切り吸い込むと、この地域ではこの時期「神在月」と呼ばれることを思い出した。 ここから益田へ向かう。始発は小さなディーゼルカーの2両編成だった。部活へ行くと思われる高校生が何人か乗り込み、今日の旅が始まった。 徐々に、夜か
2024.10.12(土) 自分自身、東北の三陸と呼ばれる地域に生まれ育ったとしても、「山陰」と聞くと透き通った青空ではなく、鉛色に立ち込めた雲と、荒れ狂う日本海、吹きすさぶ風雪…が思い浮かぶのは何故か。 城崎の湯めぐりをしているころは突き抜けるような秋晴れの気候であったが、浜坂行の列車に乗り込むと、天候が上記のイメージに近づいてきた。 餘部(あまるべ)という駅で降りようと思っている。 この駅を訪れるのは2007年以来。実に17年ぶり。その時が小学6年の卒業直後だったこ
2024.10.12(土) 福井の朝は早い。…と書くと、朝市かなにかに足を運んだような書きぶりかもしれないが、駅前のネカフェから歩いただけだ。 ここから今日はまた日本海沿いに…、 そうだな、島根に入ることが最終目標だな。 引き続き、ハピラインふくいに乗って敦賀を目指す。今日も始発から終電まで、がんばる。旅であるのだが、がんばるという言葉が正しいのだろうか分からない。 実は、昨日は鯖江まで行こうとしていた。 (敦賀にネカフェがなく、最寄りが鯖江だった) しかし、鯖江で満
2024.10.11(金) またしても、旅に出た(いい加減にしろよな)。 島根県益田に住む友人を一度訪ねてみたく、せっかくならばと島根を目指すことにした。さて、どうやって行って、どうやって帰るのか… 3連休の前日に振休をあてがい、強引に4連休として、 その最終日に関空~仙台の航空券を買った。 その他は、自由。…13日の日曜に島根に行くこと以外は。 今回は「秋の乗り放題パス」を使用。この切符は、3日間連続で全国のJRが乗り放題となる。最終日は観念して(?)普通乗車券を使
2024.09.10(火) 18きっぷが1日分余っている。さてどうするか。 どうするも何も…秋田から中3日で? 夏の18きっぷは9月10日までが利用期間。 それも分かっているんですが。 9月9日、仕事で盛岡出張から帰る道すがら、こんなことが頭に浮かんだ。 「明日から平日2連休かあ」 「もし…未明に起きれたら北海道いけんじゃね?」 仮眠3時間で青森へ車を走らせ、青森港に車を置き、 実質24時間で道南一巡り…というわけだ。 で、起きれんのか?っていう。 起きましたけ
2024.09.07(土) 18きっぷが2日間余った。さてどうするか。 日帰りでどこかへ行ってみようか。 しばし考える。とにかく、朝起きることができたら考えよう。 結果、家を4時に起きれたので、ふらーっと盛岡駅へ車移動。 ここからどうするか。 一応、北へ進路を取ろう。 券売機で好摩までの乗車券を買い、0番ホームの大館行に乗り込む。 着く頃には、自分の行き先も決まるだろう。 …決まると良いが。 岩手山を左側に見たことは記憶しているが、全くもって話がまとまらないまま
今年で3年連続の広小社会科見学の引率。 毎年テーマがちょっとずつ違っている。 今年のテーマは 「過去の災害の痕跡を学ぶ」ということで 石碑とかそういうテーマで回ってみた。 三陸沿岸は殊に教訓を伝承する石碑が数多く、 広田だけで10基を数える。 「なぜその場所なのか?」 「なぜ石碑なのか?」 児童たちに質問を投げかけながら。 そして 「なぜこの文章なのか?」 多くが昭和9年に建てられた石碑群。 戦前には珍しく口語体で掘られた文面に着目。 その時代の日本語は、 「話しコ
御祝い保存会の旗。 コロナ禍で活動が殆どできていなかったので、 日の目を見るのは5年ぶり。 今度は…威勢のいい浜唄と共に。
1944年、不要不急路線として雫石〜橋場間が“休止”。以来78年に渡り再開されぬままの橋場駅。 朽ちたホームが、経過した時間の長さと止められない時間の虚しさを物語る。戦争がなかったら、ここは今も列車が行き交う場所だったに違いない。 剥がされたレールは、国防上優先された釜石線の建設にあてがわれた記録が残っている。 鳥のさえずり、国道を走る車の音、川のせせらぎ。 ふと目を閉じると、、、 到着した汽車から忙しく乗り降りする客。 盛岡へ折り返す準備をする機関車。 蒸気圧を上げ
汽車の姿が完全に消え、橋の上が闇に包まれた瞬間、どこからともなく拍手が沸き起こった。自分の中では「ああ終わった…」という安堵の感情だった。無事に終わってホッとしたような、肩の荷が下りたような。 だが、違和感は消えなかった。 運行終了の報道が出てからと言うもの、毎日がお祭りだった。他県ナンバーの車が行き交い、三脚が線路端に立ち並んだ。 この10年あまりで、何度となく「復興支援」という言葉を聞いた。それらの活動に心を揺さぶられた者や、それらによって人生が変わった者だっている
今から約15年も前になってしまう話。 その昔、広田小学校は、毎年秋に行われる市内の陸上競技会には応援団を結成し、ブラバン応援やらバトン部やら、それはそれはスゴい規模だった。当時ですら、高田小と広田くらいなものだった。 その時にしか、歌われない応援歌があった。 小学生が上級生から配られる歌詞カードなんて、所詮はひらがなオンリーの歌詞。ザラ紙にコピーされたヘタクソな手書きの文字の歌詞を必死に覚えて歌った記憶があるのだが、 歌詞の意味がよく分からないまま絶叫にも近い声量で歌
まことに汚い話であるが、四半世紀を生きると人間というのは狡猾になる。 例えば、「ある程度のカネを払えば、夢が叶う」ってやつだ。 世の中には2種類の人間が存在する。 努力した上で子どもの時からの夢を叶える人間と、それ以外だ。 僕は無論、後者である。後者であり続けている、といった言い方が正しいかも知れない。 そんな僕が、どんな夢を叶えたか。 自分の手で蒸気機関車を運転する、ということだ。 そんな物好きな人種を集める施設など、この日本に一カ所しかない。 北海道三笠市。札幌
少し昔の話をしたい。 僕たちは、親たちや周りの大人たちから見て、少なくとも「希望」だった。もう少し詳しく書くと、「被災地の、復興の象徴」だった。 象徴という、実感のない、薄気味の悪い、ぬるっとした概念が、いきなり自分たちの身に降り掛かってきた。それも、ある日突然。一体全体、なぜなのか。周りの大人たちの行動が理解できなかった。 11年前。 この町の子どもたちは、そんな環境にあった。 その言葉はそれ以前にも聞いたことがあった。学校の授業。公民の時間。何か少し、遠い存在。
僕は職場で、いわゆる外回りをしている。支店を出て、お客さんの家を1人で回って歩いて、という部署にいる。日によっては1人ではなく職場のお偉さんと一緒に外回りをすることもある。 去年の夏だっただろうか。その日はローラー作戦と称して、市内のとある集落を端から端まで回って歩くという日があった。 決まって、そういう日は1人ではなく誰かと一緒に回ることが多かった。その日は珍しく、普段一緒に歩くような上司ではなく、Yさんという普段あまり外に出ない、アラフォーの女性の先輩と歩くことになっ
むがぁす、あったどさ。 広田の長洞つ浜ど、小友の唯出つ浜どが、ひとつの湾の中で隣り合ってらったど。 湾の真ん中を境目に広田と小友の村の境目があってす、まんつ、昔っから「ば!あっちの連中どぁ、こっちゃ来て魚っこ獲ってらじゃ」つような、言い争いが絶えなかったんだど。 ある年のアワビの時期、長ぁく言い争いが続いて、ついに「もぅは、おらどでは決められね!アワビさ決めてもらうべ」となったど。 つまり、広田と小友の両側から活きったアワビを放して、アワビが進んだところまでを漁の境界