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キリスト教と仏教の比較の前提他

僕が高校生の頃は、けっこう、キリスト教と仏教の比較みたいな本があったと思います。

大河ドラマの「八重の桜」の中で初めてキリスト教に接した八重が、「罪を許せって司法省はなんのためにあるのだ」と聞くと米国人宣教師が「今は、魂の話をしているのです」と答えるシーンが出てきます。

八重は「ヤソの神様は変なことばかりいいなさる」とつぶやいていました。

僕が子どもの頃、この手の話題が多かったと思います。最近でも、キリスト教と仏教や神道など、日本の在来宗教との比較の本はいろいろありますが、「この手の話題」は少ないんじゃないかと思います。

つまり、僕が子どもの頃までは、「ヤソの神様が言ってる変な事」が「変な事」として日本人に受け取られていたが、

「ヤソの神様は変な事を言う」が常識となり、

更に、「ヤソの神様が言ってる変な事」が常識となって、

「ヤソの神様が言ってる変な事」は「変な事」でなくなってしまった、

つまり、キリスト教の知識が日本人の中に定着してしまったと見る事ができます。

僕は日本ではキリスト教が広まらないのはなぜかと言うのは、問いの立て方が違うと思っています。

キリスト教以前に普遍的宗教として仏教が日本と言うより倭国に入ってきました。

その時、倭人の側はカミサマと言うのは岩とか木とか「依り代」に降りてくるもんだと思っていて、ホトケと言う外国のカミサマは、「仏像」が依り代なんだと思ったのだそうです。

キリスト教はケルトの人達に当初受け入れられず、ローマ教皇は、イエス・キリストの霊は木に宿っていると言えと言ったそうです。

そうしたらケルトの人達は、これまでどおり木を拝んでいていいのならとキリスト教を受け入れたんだそうです。

土着宗教と普遍宗教の出会いに際して、「土着」側は、「普遍」宗教が持っている「高度」な概念を持ち合わせていません。

(おそらく、普遍宗教と言うのは、いわゆる「文明」が発達し、社会が複雑化する中で、その複雑化した社会の中で、人々が心の中で持つようになった問いに答えようとして、「複雑」な教義を発達させてきたのだと思います。

「土着」の社会は、今までは、まだそこまで複雑になっていなかったので、複雑な概念が不要だったと言う状態で普遍宗教と出会うわけです。

ただ、「土着」の社会も徐々に「文明」とやらを受け入れざる得なくなってきて、今後は「複雑な概念」を必要とするようになっていくんですが、

普遍宗教と出会った時と言うのは、まだその「複雑な概念」に馴染んでいないわけです。

と言う中で、とりあえず、今までは「カミサマ」とか「霊」は木に宿っているって考えていたところに、「ホトケ」とか「イエス・キリスト」がやってきたのを土着側は、その「ホトケ」とか「イエス・キリスト」は、この木に宿っている霊みたいなものなんだろって考えて、とりあえず、納得する・・・

まぁ、そういう事だったんじゃないかと思うわけです。

さて、こういう風に日本では仏教、ヨーロッパではキリスト教が「受け入れられて」いった後、戦国時代に吉利支丹宣教師がやってくると言う形で、今度は、日本と「キリスト教」の出会いが始まります。

実を言うと、大乗仏教の「大蔵経」には旧新約聖書が全巻納められていて、どうやらシルクロードを通じてネストリウス派キリスト教徒の人達が伝えたものが大乗仏教の経典の中に入ったようです。

平安時代には、「宿曜表」が日本に伝わったのだそうです。

宿曜表と言うのは、中国では、星座を二十八宿(または二十九宿)と言って、二十八(または二十九)に分けています。

この二十八(または二十九)を旧暦の月の各日に割り当てたのだそうですが、1週間を七つの曜日とした場合、どの「宿」の日が何「曜」日かを示すのが「宿曜表」です。

7日間の「週」と7つの「曜日」はそもそも旧約聖書で天地を創造した神様が7日目に休まれたと言うところから来ていて、ユダヤ・キリスト教的な概念です。

つまり、平安時代頃から、日本人はキリスト教的な概念について、キリスト教と考えないで、受け取っていた可能性があるわけです。

ザビエルさんは、日本に来た時、案内してくれた日本人に「デウスみたいなものを日本語ではどう言うのか」と聞いて「大日」と言う返事が返ってきたので、

当初「大日」と言っていたそうです。

日本人の側は、吉利支丹を「天竺宗」、つまり、当時、スペイン人やポルトガル人は、アフリカの南端を周り、インド洋に出て、東南アジアを経て、日本に来ていたわけですが、

インド方面から来た仏教の一派と認識していたようです。

ある時点からザビエルさんは、「大日」と言う言葉を使わなくなったようです。どうやら、「大日」では、日本の在来宗教と区別がつかなくなると思ったようです。

しかし、そもそも、「土着」側は、「ホトケ」や「イエス・キリスト」を木に降りてきたり、宿っていたりする「カミサマ」や「霊」と似たようなもんだと思って受け入れたのですから、

今度、「デウス」ってのも「大日」みたいなものなんだろって思ったとしても、「そんなもの」だと思うわけです。

新約聖書にも、パウロがギリシャ伝道を始めた時、ギリシャ人達が信じている神様の中に「名の知れぬ神」と言うのがいる、あれが実は・・・と言う語り口から始めています。

どだい、仏教だのキリスト教だのが知られていない土地で、最初から、そういう普遍宗教を教えようとする方が無茶で、

いや、あれはだから樹木の霊なんだよとか、あんた達が信じている「名の知れぬ神」のことなんだよとか、

そういう風に言わないと理解されにくい、

だから、デウスって大日みたいなものなんですで良かったと思うわけで、ザビエルさんは、無理しすぎたと思うわけです。

でまぁ、大日って言葉を使わずに、デウスって言ったから、日本人が「キリスト教」を「ちゃんと」理解したかと言うとけっこう怪しいと思います。

長崎が教会領になったイキサツで、当時の日本人は寺社に寄進することは「功徳」になると考えていたようです。

それから、禅宗のお坊さんは中国の「明」に留学した経験がある人が多く、禅宗のお坊さんとお近づきになると、明との貿易が出来る可能性があったんだと言うことです。

ですから、当時の日本人の感覚からすると、「禅宗のお坊さんと仲良くなれば、明と貿易出来る。今度は吉利支丹の伴天連と仲良くなって、南蛮貿易だぁ」ってぐらいの感覚で、

そう言えば、お寺や神社に寄進すると功徳になるって、じゃあ、長崎の土地は、吉利支丹の教会に寄進しよう・・・

コレって今の企業が「環境」だの「社会性」だの、ESRみたいなことをすると、実は利益が返ってくるみたいに思ってやっているのとあんまり変わらない感覚じゃないかと思います。

こういうのが「キリスト教」を「ちゃんと」理解して受け入れたと言えるのか?

まぁ、考えようによっては、「社会貢献」と「収益活動」を両立させれば、「隣人愛」の教えを実践したのと同じだから、結局は「理解した」と言えるのかもしれませんが・・・

とにかく、日本でキリスト教が広がらないのはなぜか?と言うのは、そもそも、問いの立て方がかなり間違っていて、

日本人は十分にキリスト教を受け入れているのです。

初詣は神社、葬式はお寺、結婚式は教会と言うのは、

ホトケは仏像って依り代に降りてくるとか、イエス・キリストの霊は木に宿っているとか、デウスは大日だとか、吉利支丹に土地寄進すれば禅宗のお坊さんと仲良くなれば明と貿易できたみたいに南蛮貿易できるとか

そういうのの現代版なのです。

そして、八重のように、「ヤソの神様は変な事ばかり言う」って思わずに、その「変な事」を自分たちの「常識」の中に受け入れてしまって、

マザー・テレサの「愛の反対は無関心である」とかって聞いて、物事に関心を持とうとする人が出てきたりする・・・

これでキリスト教を受け入れていないと考えるのは、

実は、既存の農業者が、「新しい就農者」が自分達と同じやり方をしないと言っているようなもの、

つまり、こういう事を言う人は、「自分が思っていた農業を新しい人がしない」と言っているだけなんですが、

それと同じで、既存のキリスト教の側が「自分が思っていたキリスト教と同じキリスト教をやらない」と言っているだけだと思うのです。

(農業やキリスト教に限らず、会社とかでも「古い人」が「新しい人」について、「オレが思っていたのと違う「仕事」のやり方をしている」とカリカリするのは、よくあることですね)

話が、キリスト教と仏教の比較から大幅にそれてしまいましたと言うより、もう字数がかなりになってしまい、今回は、そのお話になりそうもありません。

今まで述べてきた通り、土着の側が普遍宗教を受け入れる場合、ホトケは仏像ってのに降りてくる外国のカミサマとか、イエス・キリストの霊は木に宿っているとかと考えるわけで、

その倭人が仏教、ケルトの人達がキリスト教を受け入れた「受け入れ方」には、そんなに違いはないと思います。

しかし、普遍宗教として、仏教とキリスト教の特徴を考えてみた時には、やはり、そこには違いがあるんじゃないか?

その「違い」を考えてみる事には意味があるんじゃないか?

そう思うわけですが、その話はまた次回以降にします。

2週間予報は、7月半ば頃までそれなりに雨が降る日があるとする一方で、最高気温35℃以上の猛暑日もあるとしています。

「梅雨」と言う概念で、今の時季を捉えること自体が「正しい」のかとも思いますが、

とにかく、「ドンヨリ」空で「ムシムシ」する状態が続く時季と「カンカン照り」になる時季があるとして、

その「ドンヨリ」、「ムシムシ」状態と猛暑日の気温水準が同時に存在すると言うのは、かなりエグい気がします。

五枚目の数字づくり、今日のお題は、「10」、「3」、「5」、「9」を使って、「2」を造るです。 頭の中で考えていないで実際にポーカーチップを積んだり並べたりしてやってみましょう。

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