算数をなぜ学ぶ必要があるか?について、改めて
このところ、算数教育や不登校の問題をめぐり、いくつかの出会いがありました。
改めて、なぜ、(算数を)学ぶのか?みたいな事を考えさせられています。
だいぶ以前に、ある自治体の環境総合計画を作るのに関わった事があります。
当時、環境基本法が制定されたばかりで、国は自治体が環境総合計画を作るなら、補助を出すと言っていました。
ただ、自治体側の「自己負担」もあり、なぜ、そういう事に予算を使わねばならないか?と言う反対意見も強かったようです。
それで、そもそも、環境総合計画を作ると言う話そのものが暗礁に乗り上げたようです。
当時の首長さんは、環境総合計画を作りたいと考えていて、暗礁に乗り上げた事について、困ったなぁと言う感じでした。
僕は、財政とか産業とか人口とか土地利用とか、とにかく、いろんな分野の地域の統計データを過去30年分持ってきて下さいと言って、たくさんのデータをもらいました。
山積みになったデータを洗っていくうち、あることに気づきました。
清掃工場の建設予算が自治体の年間予算額にほぼ匹敵する額だという事です。
この建設費を「地方債」、つまり、自治体の借金で賄っていたのですが、毎年、少なからぬ額を返済金として予算計上していて、財政負担が大きい事がわかりました。
そして、清掃工場と言うのは使っているうちに炉が傷むので、30年ぐらいで再度作る必要がある・・・
つまり、個人に例えれば、年間収入と同じぐらいのローンを組んでそのローンが終わったら、また同様のローンを組むと言う事がずっと続いていると言うか、続けなければならなくなっている・・・
(これは他の自治体でもほぼ大同小異の状態が、現在でも続いていると思います。)
とにかく、ゴミを減らして、財政負担を減らした方がいいです。そのために環境総合計画を作りましょう・・・
そう言う風に僕が伝えた途端、「反対論」は止みました。環境問題なんかどうでもいいと思っている人達も「経済」や「財政」の事情を話すと理解してくれたわけです。
この事を通じて、僕が考えた事は、自分と考えが違う人に通じる論理を考えるべきだと言う事です。
話が飛びますが、アメリカで仏教チャプレン(伝道活動者)の活動が拡大しているのだそうです。
VOAが伝えるところでは、キリスト教チャプレンはゴッド・ワード(聖書の言葉)に頼りがちなのに対して、仏教チャプレンは「中立的」、「包括的」な言葉を使う、
それで「無神論」や「イスラム教徒」の人にも受け入れられているのだそうです。
あるカトリック系の病院では、「カトリックであるにも関わらずではなく、カトリックだからこそ」仏教チャプレンを病院に置いて、ターミナルケア活動をしてもらっているのだそうです。
この「中立的」、「包括的」と言うところが大事です。ゴッドワード(=聖書の言葉)では、無神論やイスラム教徒の人達は受け入れない、でも、みんな、自分はいつかは死ななければならないと言うことは知っている、
その人達に、「ゴッドワード」の代わりに「ホトケワード(お経の言葉)」を使えばいいかと言うとそうではない、
ただ、仏教は根底のところで「生老病死」、人は生きて、老いて、病気になり、いつか死んでいくと言うことについての思考を持っている、
だから、「ゴッド・ワード」も「ホトケ・ワード」もとりあえず使わないで、「でも、あなたもいつかは死ぬんだから」と言う形で「中立的」「包括的」に語る言葉が出てくる、
これが「無神論」、「イスラム教徒」の人達にも仏教チャプレンが受け入れられている理由だと思います。
僕が環境総合計画づくりについて、「非環境派」の人達の同意を取り付けられたのも同じ事で、
「でも、これだけゴミ処理にお金がかかっているんだから」と言うのは、「中立的」、「包括的」な言葉として作用したからだと思います。
(「環境問題は大事なんだ」的な「エコワード」では反対派の意見は説得できなかったと思います。)
字数が多くなってきたので、本題の「人はなぜ(算数を)学ぶべきか」について書くのは次回に回したいと思います。
ただ、「不登校はよくない」、「算数は出来ないといけない」、「勉強はすべきだ」等は「中立的」、「包括的」な言い方ではないと思います。
なぜ、算数を学ぶべきか?、なぜ、勉強をすべきか?と言った問いに対して、やはり、「中立的」、「包括的」な答えが必要だと思います。
それらは、「ゴッドワード」ならぬ「サンスー・ワード」、「ガッコウ・ワード」、「センセー・ワード」になってしまっていると思います。
では、「サンスー・ワード」、「ガッコウ・ワード」、「センセー・ワード」でない言い方で、
「算数を学ぶべき理由」をどういうか?
本当に字数が長くなってきたので、そのへんは次回にしたいと思います。
毎回、似たような事を書いていますが、2週間予報は、晴れると気温があがり、雨や曇の日は平年並みになるとの予想を伝えています。
この繰り返しの延長で、5月下旬から「雨・曇」モードになるわけですが、この時季がいわゆる「梅雨の走り」の時季になるわけです。
どうも、「温暖化」と言うより「高温化」している各季節の移りゆきの中で「梅雨」と言う概念で農作業に関わる天候の推移を見る事自体、ふさわしくないんじゃないか?
だんだん、そう言う疑問が膨らんできています。
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