【小説】独白
「左手で歯磨きできるようになったこと先生に言ったら喜んでくれるかな」
「風呂に入ったって言われた方が喜ぶんじゃないか」
それもそうだ。開けてしまった口から泡がこぼれそうになる。拙い左手での歯磨きに満足して、歯ブラシを右手に持ち替えた。こっちにおいでと仕上げ磨きをしてくれた母を思い出す。あの空間は温かかったな。歯磨きを終えてタオルで手を拭くと、いつもより体が軽く感じた。
歯磨きさえできなくなった日々があること。この人に言う必要はないなと思う。さらけ出すことと、全てを見せることはイコールで繋がれない。
だが、この世に正しいこともまた一つもないのだろう。
久し振りに冷房を消して出かけた帰り、家に着くや否や暑すぎて吐きそうになった。暑い、とうなだれていると彼女はリモコンに手を伸ばす。ぴっ、ぴっ、ぴぴっ。
「あんまり下げないで」
「大丈夫、風量上げただけだよ」
それから数時間。キンキンに冷えた部屋で季節外れの毛布に包まる。温かい。ふわふわのこの感触が好きで、未だに薄手のブランケットに変えられない。
かつて付き合っていた人は言った。歯磨きの音嫌いなんだよね、と。以来、人前で歯磨きをしないようにした。洗面台の前から一歩も動かず、ただ鏡に映る自分を見つめながらしゃこしゃこと歯ブラシを動かしていた。
そんな記憶も薄れてきて、気分が良くて、思えば言い訳にしかならない御託を頭に並べながら、結局のところその日は少し離れがたくて。彼女に一度お誘いをした。
「これ桃の味するから一緒に歯磨きしよう」
歯ブラシを咥えながら彼女の前に立つと、手を差し出されて、はてなを浮かべる。
「あれ、私の分持ってきてくれてないの」
まばたきをして、あっちにあるよと言った。
しゃこしゃこと二人分の音が響く洗面台の鏡越し、目が合う。ちらりと横を見ると、彼女もこちらを向いていた。口許についている泡。可愛いなと思ったり、思わなかったり。また視線は飛んでいく。
そろそろ口をゆすぎたい。歯磨きが下手くそなまま大人になって、口の周りは泡だらけ。恥ずかしかったから、先どうぞと手のひらを見せて洗面台に向けた。
歯ブラシについた泡を水で流して、元の場所に置いて、口に水を入れて、ぐちゅぐちゅと二度三度、吐き出して、終わり。先に部屋に戻っていく彼女の背中をずっと見ていた。
一人残された洗面台の前。普通だったなと思いながら、歯ブラシに石鹸をつけて洗う。水を切って元の場所に置く。もう一度石鹸を出して、手に伸ばした。あの子はこれの何が嫌だったのだろう。想像できないまま、泡を流して水を止めた。
いくら時間を共にしても知らないことがある。分からないことがある。そういえば、別れる時に言われたな。
今のあなたの全てを肯定する人間はいないよ。
あの子の気持ちが分からないことは、そんなに重くて悪い事だったのかな。いつか指に刺さって痛かった棘のように心にまだその人の言葉が刺さっていることが、なんだか苦しかった。
彼女がシャワーを浴びると薄い壁越しに水が通る音がする。それに安心する。一人でいるこの部屋で、孤独でないことを感じられる音。
別れ際。今まで黙っていたけど、そういうあなたの発言で傷付いてきたよ。そう、返してしまった。分かりたい、分かり合いたいと思っていたのは自分だけだったと思ったから出た言葉だった。でも、相応しくなかった。正しくなかった。
本当は、どう言いたかったのだろう。自分が傷付いたことなんて今思えばどうでもよかった。衝動に身を任せて口をついた言葉で今までどれだけ悲しい思いをさせてきたのか。傷付いた記憶より、傷付けた記憶の方がよっぽど忘れられなくて、痛い。
人から肯定されないものを肯定したいと言った人に、そういう考え大好きです、と返信した。好意はどんな形でもそこそこ良く見えて、嫌悪はどうしたって刺々しい。好きも嫌いも同じ幅だけ揺れた感情に過ぎず、マイナスにマイナスをかけたらプラスになる世界にいるというのに。
汚く見えているものは本当に汚いのか。何度も手を洗う現象に名前がつきそうになったから考えるようになった。
共存なんてできないだとか、相性がどうとか、そんな言葉の限界のような断絶が日常を支配する。人はセックスをして子を残すし、その子は自分だし、あの子だし、彼女だし。
汚いって言い方が気になるなら、綺麗じゃないって言い方にしてみたらいいんじゃないですか。このご時世に子育てをする大人が汚さの教え方に困っていて、そんなことを言った。何度思い返しても自分の中で正解とは程遠い。言葉の限界を超えたところで、人の感情までは支配できない。
分かり合えなくてよかったのだろうか。自分には歯磨きを一緒にしてくれる愛しい人ができて、そんな自分はかつての恋人を傷付けた人間で、あの人はずっとどんな顔で洗面台の前に立っているのだろう。
だけど、連絡を取りたいと思うほど未練もない。正直、自分が幸せならそれでいいと思う。冷たい人間だと言われて泣いたのは一度だけだった。自覚してからは、否定することなく笑えるようになった。
せめて、この毛布のように、あるいは自分にとっての歯磨きの音を気にしない人のように、あの人も安心できる人と一緒にいられたらいいと思う。それが叶わないままであろうと、心底どうでもいいのだけど。
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