【小説】午前9時の自殺

何の変哲もない朝。毎日、毎日、何年も、空っぽのまま生きている。僕は、今日も僕のままだ。
「死にたいな」
天井を向きながら、発した感情。
「どうして?」
煙草を吸いながら問いかけてくる彼女に驚いた。いつもなら適当に同意しかしてこないのに。思えば、もういつもと同じ朝ではなかった。
「……何もない、から」
「何もなくていいじゃない」
ちがう、違う。良いわけがない。僕は表現者だ。文章と、音楽と、映画と、写真。やりたいことがいくつもある中で、映画作りが一番楽しかった。何年も作り続けた。それなのに、作るものすべて、感情がないと言われる。いつの間にかその言葉は僕を刺すようになった。きみってAIみたいだよね。
ぽつり、溢れる。
「いつも感情がないって言われるんだ。無いわけじゃない。ここに確かにあったのに」
心臓のあたり、ぎゅうっと服を握りしめた。珍しく彼女は何も言わずに僕を見ている。
ふわりと舞っては、ぱしゃんと割れる。
「人はみんな風船を持っていて、空気がたくさん入ってもそう簡単に割れない。でも僕にとってのそれは、弱すぎるしゃぼん玉みたいなんだ。」
ぱしゃん、ぱしゃん、割れていく。
「風船だったら、空気がなくても風船があることは揺るがない。でも僕のしゃぼん玉は、そこにあったことさえ残らない。しゃぼん玉だから。外に出る前にいつも消えてしまう」
彼女は口を開かない。煙草もまだ一本しか吸っていないのに、吸いに行こうとしない。
ぱしゃん
「それを考えていたら、なんか、何にもないなって思って、映画を作ることもしたくなくて、死にたくなった」
沈黙が包み込むこの部屋にいる僕の中からもしゃぼん玉の音がなくなる。換気扇の音だけが耳に届く。気まずさに耐えかねて顔を上げると、ぽた、ぽた、と涙を流す彼女の瞳。目が合ってしまった。
「なんで君が泣くの」
「……初めてあなたの言葉を聞けたことが嬉しくて」
嬉しい、うれしい?どうしてそんな事で喜ぶのだろう。
「人が生まれ変わる瞬間とはこういうことを言うんだなって」
泣くことをやめずに、彼女はいつもより少し低く小さい声で言う。
「人は挫折をして生まれ変わる生き物だ。人間の一つ目の挫折は、この世界に生まれてくること。こんな理不尽で辛いことしかない世界に生まれてきたから、嫌だ嫌だと思って泣く」
涙声で一つ一つ言葉を紡ぐその声のせいで、僕の鼻も少し痛かった。
「そして、人は死にたいと思うたびに生まれ変わっていく。そう思う前の自分はもうどこにもいない。ちゃんと死んでしまったんだよ」
すうっと息を吸って。
「人が生まれ変わる瞬間がこんなにも愛おしいなんて知らなかった」
いつも目が合わない彼女は、一度も目を逸らすことなく僕に言い切った。それからおもむろにティッシュを取って鼻をかみだしたから、また天井を見つめた。
「私だって、最初から人間味があると言われたわけじゃない。冷たい人間だと言われていたのは知っているでしょう?」
煙草に火をつけ、息を吐き出す音。彼女の紡ぐ言葉を聞く。
「感情が無いと言われたのが悔しくて、その上泣き虫だから、今私は何を思って泣いているんだろうって考えるようになった」
彼女は焦りを抑えるように煙草を吸うから、減りが早い。
「考えて、考え続けて、その過程を記録するために書くことを始めた。多分、仕返ししたい気持ちもあったんだと思う。こんな私でも文章は書けるんだって、薄情だと言ってきた人たちに思わせたくて」
まだ吸える分がありそうな煙草を灰皿に押し付けた彼女は、キッチンにあった醤油を掴んで僕の前にしゃがんだ。
「ここに醤油があります。これを見た人はみんな醤油と言います。なぜなら名前がそうだから。では、これが石だと本人もみんなも言ったならこれは何になりますか。私は、石になるのだと思う」
ぱしゃん、とまた生まれて消える。
「あなたには名前がある。人は名前に引っ張られる生き物だ。そして自分自身も捨てきれない。でも、私たちは何にでもなれる。自分がそう信じ、周りを信じ込ませたなら」
それでもあなたは一生、空っぽの自分でいるの?
力強い目で見つめられて、言葉を失う。ぱしゃん、ぱしゃん、しゃぼん玉は生成されるのに割れることも止められず、残らない。
「私は、自分の名前が嫌いだから。自分が嫌いだから。新しい名前を付けた。あなたが表現者として生きる時のために名前を作り使っていることと、少しだけ同じなのよ」
ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃ
「でも、今は、本当にやりたいことが何もない。映画作りも楽しくなくなった。誰かに誘われたら死んでしまうと思う。……こんな重苦しい話もしたいわけじゃなかった」
ねえ、と呼びかけられて、重たい頭を動かす。
「今、私そんなに重苦しいと思ってなさそうな顔してない?」
いつもよりぼんやりと見える彼女の顔は、なぜか確かに楽しそうだった。
ぱしゃん、ぱしゃ
「……君の言葉を浪費してしまうのもやめてほしいし、やめたいよ」
「あなたって人にあげたものにとやかく言う人?私があげたいと思ってあげてるものなんだから、どんな使い方したっていいんだよ。使われないより使ってくれる方がよっぽど嬉しい」
どうして、どうして、そんなことを言うのだろうと思う。ぱしゃん。
「ねえ、私思うの。死にたいも喜怒哀楽も、心配も迷惑も全部感情なんだよ。その一番下の一つ目が思う事なんだと思う」
思う事、思う。思うって何。
「そんな簡単そうに言われたって、一朝一夕で感情は生まれないよ」
「確かにすぐ変われる人なんていない。大人になってしまったら変わる方が難しい。でも、変わり続けることは生きることだよ」
ぱしゃん、ぱしゃ
「死にたいと思うたびに生まれ変わって、また一から生き直すの。肉体が死んでしまうまで、ずっと」
空っぽだと言われてきたし、自分でもそう思ってきた。でも、このたった数時間で割れたしゃぼん玉は一体いくつあったのだろう。しゃぼん玉だから数える間もなく消えてしまうばかり、それでも、僕はちゃんと見ていた。ちゃんと、何かを思っていた。今はまだその何かは分からないし、やりたいこともないけれど、この朝の会話が映画にできたらいいのにと思っていた。

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