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とどのつまり、私は何も分かっていないのだなと、感情的になった後はよく考える。
人に対して怒らないのは、怒り方が分からなくて恥ずかしい思いをするからだ。そうして逃げてきた結果、怒りたくなるくらい感情を揺れ動かしてくる大切な人の前で毎回失敗してしまう。経験でものを語るのは確かに馬鹿なのかもしれないけど、経験がなければ上手く生きていけないのもまた事実だ。
そして本当は、本来は、大切な人にこそとびきり優しくしてあげるべきだ。自分が生きてていいと思いたいから、とか、返して欲しいから、とか、その結果生み出される優しさは否定されないで欲しいけど、私はそんなものが持ちたい訳じゃない。ただ純粋に、大切だと思わせてくれるほど愛おしいその人のためだけに、何かをあげていたい。
そうやって考えているのに、子供みたいな私は押し付けようとして、分かって欲しいと願っていて、そんなの何の意味も無いっていうのに。
分かってくれる人というのは意外とそばにいてくれて、きっと私はその人たちに優しさや思いやりや愛情を返し切れてなくて、そのくせまだ他にも自分を理解してくれる人が欲しいと願うなんて、どれだけ傲慢なんだろう。大人になればなるほど弱くなって、独りよがりになって。
顔が良いも、その人の性格が好きも、つまりはその人と居られる間は幸せだってことだ。幸せをずっと貰っているということだ。それ以上を求めるのなんか、どうかしているよ、本当に。
傷付けてくる人の気持ちを理解しようとしなかったら、生きていけなかった。怖くて、殺したいほど憎くて。そう嫌ったら苦しかったから、少しでも呼吸がしやすいようにしたくて、その人にはその人なりの気持ちや事情があったのだと、見えない部分、本当は無いかもしれない部分を埋めて来た。
でも、それで一体、誰が救われたんだろう。悲しかった私は傷が付いたままで、きっと暴力なり暴言を与えてくる側も苦しかったからで、したくもなかった事だろうにそうするしかなくて。そう思ったところで、その事象は無かったことにできない。本当の赦しってそうじゃないだろって、今だからこそ思う。
どうしてあげたらよかったのか、どう振る舞えばよかったのか、考えるのは自由だけど、結局すべて過去で、もう二度と取り戻せない。良いものも悪いものも、全部、ここには無い。
短絡的かもしれないけど、自分がされて悲しかった事は他人にはしない、という事しか学べないのだろう。そうやって、過去の何かを過去の中で終わらせるんじゃなくて、現在の中で進む日々で生かしていくことが、今と向き合うって事なのかもしれない。
いつだって間違いだらけだ。完璧になどなれやしないと分かっていても、私は普通にさえ届かない。だったら、せめて、間違った事をされても赦し続けたい。それが、与えられて嬉しかった優しさだった気がするから。
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