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あの時の「分かった」と今の「分かった」は違う

貴方の「分かった」と、私の「分かった」も違う。
いやもう当たり前すぎるんだけどさ。
すぐに同じ理解だと思い込んで、確認忘れてしまう。

お互いの「わかった」が一緒だと思い込むことばかりだ。
それによって引き起るトラブルだらけだ。
大小問わず、そんな思い込みと、自分とは違うで、エネルギーを削がれて
摩耗しているのが、社会なんだなと感じている。
摩耗していることにすら気づかずに、自分の気持ちを押し込めて、抑圧して、何とか社会の中で生きている。
そんなこと感じ始めたら、どんどん社会の中にいるのがきつくなるし、
どうしたらこのしんどさから解放されるのかと、
こんなこと気づかなければよかったと思いたくなる。

でも、そこから逃れるのは意外と簡単で、
物理的に開放できるところに身を置いて、リフレッシュやデトックスを行う
と、いったんすっきりする。
その考え方については
・解放
・解放→極め
・解放→極め→統一
を読んでもらえるといいのだけど。
要は、自分と相手の「わかった」は違う。を根底に
「わたしはわたし」として生きていくことが、
「わかった」の相互のずれを、意識させない生き方に繋がる
なんて思いいたっている。とりあえず現時点で。

もう一つ、厄介なことがある

「わかった」の認識は他人相手、社会相手だとこんな感じだけど、
そして、自身の認識価値観と「わたしはわたし」とすることが重要だと
思っているけど
その「わたし」の中でもよく起こっている。

一度理解したと思っていることも、後で、数年経って、
全然違う理解に落ち着くことがある。
なぜ過去の私はこの理解で納得したんだ?
と、その理解にも苦しむ。

仕事が相談支援だからか、人の話はよく聞くけど
あとで振り返ってみて、なんでその行動したのか?
とか、その場ではうなずいて聞いていたけど、
あとで気になることなんてよくあるし、
それこそなんで面談の時はスルーしているんだ!?と、、、
面談で集中していないんだねと言われればそれまでなんだけど、
何が気になって、話を聞けるかなんて
その日、その時でだいぶ変わると思うし

だから今理解したこともあくまで
今時点の話。
「あの時はこう思ったけど、今はこう思うんだよね」
と、何の気なしに語り合える環境が欲しい。

そうなれば、
「今気になっているからもう一回教えて」。
とか、
「やっぱりいやだなー。考えさせてー。」
とか
ドタキャン、とか、
悪いなとは思うけど、仕方ないと思って言いやすくなるんじゃないかな。

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仙水
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