「腹案」にはなかった真珠湾と「要領」にもあった東亜の独立
【11月5日 第七回御前会議】
議題は「帝国国策遂行要領」
昭和16(1941)年11月5日(水)午前10時30分,宮中東一の間にて,留保つきながらイギリス,アメリカ及びオランダとの開戦を決定する御前会議が開かれた。
その議題は,同月1日に大本営政府連絡会議が決定した「帝国国策遂行要領」。時の内閣総理大臣は東條英機氏。前月18日に首相に就任したばかりであるが,後の極東国際軍事裁判において,この開戦決定の責を負うことになる。
帝国国策遂行要領は,僅か二箇条。
アメリカ,イギリス及びオランダとの戦争を決意,その開戦時期を12月初頭と定める一方,いわゆる甲案及び乙案に基づき戦争回避に向けた対米交渉を継続,仮に同年11月30日までにアメリカとの和平が成った場合には,武力発動を中止するというものである。
この,昭和16(1941)年11月5日の御前会議で決定された,帝国国策遂行要領(甲案・乙案を含む。)の全文をみてみたい。
帝国国策遂行要領(御前会議議題)
一、帝国は,現下の危局を打開して自存自衛を完うし,大東亜の新秩序を建設する為,この際対米英蘭戦争を決意し,左記措置を採る。
武力発動の時期を十二月初頭と定め,陸海軍は作戦準備を完整す。
対米交渉は,別紙(対米交渉)要領に依り之を行う。
独伊との提携強化を図る。
武力発動の直前,泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す。
ニ、対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す。
別紙 対米交渉要領
対米交渉は,従来懸案となれる重要事項の表現方式を緩和修正する別記甲案あるいは別記乙案を以て交渉に臨み,之が妥結を計るものとす。
甲案
日米交渉懸案中最重要なる事項は(一)支那及び仏印に於ける駐兵及び撤兵問題(二)支那に於ける通商無差別問題(三)三国条約の解釈及び履行問題及び(四)四原則問題(※ハル四原則)なるところ,これら諸項に付ては左記の程度に之を緩和す
記
支那に於ける駐兵及び撤兵問題
本件に付ては,米国側は,駐兵の理由は暫くこれを別とし,(イ)不確定期間の駐兵を重視し,(ロ)平和解決条件中に之を包含せしむることに異議を有し,(ハ)撤兵に関し更に明確なる意思表示を要望し居るに鑑み,次の諸案程度に緩和す。
日支事変のため支那に派遣せられたる日本国軍隊は,北支及び蒙彊の一定地域及び海南島に関しては,日支間平和成立後,所要期間駐屯すべく,爾余(じよ)の軍隊は,平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始し,2年以内にこれを完了すべし。
(註) 所要期間につき米側より質問ありたる場合は,概ね25年を目途とするものなる旨を以て応酬するものとす。仏印に於ける駐兵及び撤兵
本件に付ては,米側は日本は仏印に対し領土的野心を有し,かつ近接地方に対する武力進出の基地たらしめんとするものなりとの危惧の念を有すと認めらるるを以て,次の案程度に緩和す。
日本国政府は,仏領印度支那の領土主権を尊重す。現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍隊は,支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては,直にこれを撤去すべし。支那に於ける通商無差別待遇問題
本件に付ては,既提出の9月25日案にて到底妥結の見込みなき場合には次の案を以て対処するものとす。
日本国政府は,無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては,太平洋全地域,即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す。三国条約の解釈及び履行問題
本件に付ては,我方としては自衛権の解釈を濫に拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に,三国条約の解釈及び履行に関しては我方は,従来屢々説明せる如く日本国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして,此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す。米側の所謂四原則に付ては,之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問はず)中に包含せしむることは極力回避す。
乙案
日米両国は,孰れも仏印(ベトナム,ラオス及びカンボジア)以外の南東亜細亜及び南太平洋地域に武力的進出を行わざることを約すべし。
日米両国政府は,蘭領印度(インドネシア)に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるるよう相互に協力すべし。
日米両国政府は,相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰せしむすべし。
米国は所要の石油の対日供給を約すべし。米国政府は,日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし。
備考
必要に応じ本取極成立せば,南部仏印駐屯中の日本軍は,仏国政府の諒解を得て北部仏印に移駐するの用意あること並びに支那事変解決するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立の上は,前記日本国軍隊を仏印より撤退すべきことを約束し差支無し。
なお,必要に応じては,従来の提案(最後案)中にありたる通商無差別待遇に関する規定及び三国条約の解釈及び履行に関する既定を追加挿入するものとす。
中国問題はサブ
甲案及び乙案は,外務省がそのベースを作成し,主に陸軍の意見で修正されたもの。
まず中国に駐兵している日本軍の撤兵の問題について検討。
甲案は,中国での平和が成立することを前提に,北支(北京や天津など河北省中心)及び蒙疆(南モンゴル)及び海南島については,平和の成立から25年後に撤兵するというもの。北支と蒙疆は満洲国に隣接し,海南島は南シナ海への出入口。これら重要地については撤兵はするが,平和成立から25年後という留保を付けた。その他の地域(南京や上海など主に南京汪兆銘政府が支配している)については,平和成立と同時に撤兵を開始し,2年以内に撤兵を完了するとした。
これに対し,最終案とされた乙案では,第4項でアメリカが日中間での平和成立を妨害することを禁ずる旨を規定するが,中国からの撤兵には触れていない。このあたり,仏印からの撤兵について譲歩することとの兼ね合いであるし,逆にアメリカの交渉の重点が中国にはないと,当時の日本が理解していたことを示している。
もっとも,甲案であれ,乙案であれ,日本の主張は,中国において平和が成立までは日本軍が駐兵することが前提となっており,少なくとも現状維持案である。その意味で大差はない。
なお,甲案も乙案も満洲については一切触れていない。この甲乙案に限らず全ての交渉過程において,満洲については,少なくとも日本は現状維持を当然の前提としていたし,それはアメリカも呑むと日本はよんでいた,と字面からは解釈できる。
メインは仏印問題
そもそも,日米交渉は,昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件に端を発する支那事変(日本による呼称)の4年間に,それを理由に始まったものでない。
日米間で戦争回避に向けた交渉が開始されたのは,昭和15(1940)年9月の北部仏印進駐に続き,アメリカ領フィリピン,イギリス領マレーシア,シンガポール及びビルマ,オランダ領インドネシアに隣接し,これらへの航空機での直接攻撃すら可能とする南部仏印(サイゴンが中心)に対し,日本軍が進駐する動きが出てきた昭和16(1941)年4月以降である。
南部仏印進駐は,昭和16(1941)年7月28日に実行されたが,その前後,アメリカを中心とした所謂ABCD包囲網が,下記のような経済措置を日本に科している。同年8月1日には,当時日本がその90%をアメリカに依存していた石油の対日輸出が禁止されていた(オランダも追随)。
その意味で,南部仏印進駐の是非と,これに対するアメリカの反応が想定内か否かは別にして,戦争回避に向けた日米交渉は,圧倒的不利な状況からスタートしており,そもそも日本には妥協するしか交渉材料がなかった。
日本は,アメリカの最大の関心事は(アメリカにより深い魂胆があったのかもしれないが),中国(満洲を含む)からの日本の撤兵ではなく,フランス領インドシナ(仏印/ベトナム,ラオス及びカンボジア)からの撤兵にあると理解,交渉の焦点を仏印(特にサイゴンなど南部)からの撤兵に置いた。この意図は,最終案である乙案,特にその「備考」に表れている。
ところで,仏印へ日本軍の進駐は,北部であれ南部であれ,仏印を経由した重慶政府(蒋介石政権)への支援物資の輸送(いわゆる援蒋ルート)を遮断することを目的とし,既にドイツに降伏し,むしろドイツに協力していたフランス(ヴィシー政権)との間で締結した協定に基づき行われている。フランスも,”敵国イギリス・アメリカ”の侵攻からの防衛や,本国に輸出できなくなったコメやゴムなどの販売先として,日本に依存していた。日本の北部・南部仏印進駐は,相互の利害が合致した協定に基づく進駐であって,戦争などで一方的に侵略したものではなく,第三者のアメリカから撤退を要求される理由はなかった(当然のことであるが,アメリカはベトナム人民のために日本の撤兵を求めたものではない。)
しかし,日本は仏印について,アメリカに妥協した。
甲案では,進駐の理由となった支那事変の解決後という条件ではあるが,仏印全域(北部も南部も)から撤兵する旨が記されている。
これに対し,乙案(備考)では,とりわけ南部仏印についてより大幅に譲歩している。政府間協定に基づく駐兵だったため(フランスにも防衛・経済面でメリットが大きかった。),他方当事者であるフランス政府の承認を条件とはしているが,支那事変の解決を待たずに南部仏印からの撤兵を行う用意がある旨を表している。
なお,下掲の拙稿は,後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でも訴因(33)となったこの仏印進駐問題に関して,主に被告人側(つまり日本側)の主張に焦点を当てたもの。
日本の妥協
ここで忘れていけないのは,甲案であれ乙案であれ,撤兵条件の違いこそあれ,日本は,万里の長城以南の”狭義の中国”と,フランス領インドシナ全域からの完全撤兵を表明していること。そして,日本が最後まで護ろうとしたのは,日清戦争以降,日本人がその血と汗で獲得し,既に建国して10年経過した満洲国に関する権益ということである。
付言すると,満洲国は日本が国際連盟から脱退する原因となったが,その国際連盟でさえ,満洲事変が発生した昭和6(1932)年9月18日以前の駐兵を含めた日本の満洲に対する権益については,これを全面的に承認していた。ところが,当のアメリカは,その国際連盟に加盟すらしていなかったのである。
ところが,約6ヶ月間の交渉を経て,日本側が妥協の結果の最終案として提示した乙案(備考を含む。)に対し,アメリカは,昭和16(1941)年11月27日(日本時間),これを拒否し,これまでの交渉を白紙に戻すだけでなく,中国(満洲を含む。)について条件を加重する条件を提示している。これがいわゆるハル・ノートである。
【11月12日 外務省の要領】
対米英蘭蒋戦争終末促進要領の取りまとめ
昭和16(1941)年11月5日の御前会議において,対米交渉継続という留保付きながらも「十二月初頭」の開戦が決定したことを受け,外務省は,同月12日付で対米英蘭蒋戦争終末促進要領を取りまとめている。当然「国家機密」の指定がなされている。
なお「蒋」とは,中華民国重慶政府の蒋介石。当時,日本は,前年(昭和15年)11月30日に中華民国南京政府(汪兆銘政権)との間で締結した日華基本条約をもって,南京政府を中華民国の正統政権と承認していた。そのため,重慶を拠点として日本と交戦していた蒋介石については国家を代表するものとは扱っていなかった。そのため「蒋」という表現になっている。
以下,その全11項(備考を含む。)をみてみる。
対米英蘭蒋戦争終末促進要領の内容(全文)
〈本 文〉
独伊両国との間に単独不講和取極を締結す。
日独間の話合により独ソの講和を斡旋し,日独間の大陸連絡を復活し他方日ソ関係を調整しつつ場合によりては,ソ連のインド・波斯(はし/ペルシャ)方面進出を助長するよう措置す。
援蒋ルートを完全に遮断し,在支那租界を帝国実力下に把握し,他方在南洋華僑を誘導利用し,蒋介石政権に対する圧迫を強化し,支那事変解決に資す。
比島(フィリピン)の占領後その独立を認め,可成速やかに之を内外に声明す。
蘭印(インドネシア)の一部を独立せしめ,所要地域を帝国のために確保す。
ビルマを独立せしめ,インドの独立運動を刺激助長す。
タイの対英失地回復を支持す(仏印/ベトナム・カンボジア・ラオスは現状を維持す。)。
占領地施政については民生を圧迫せず且つできうる限り内政不干渉主義を執り,もって人心把握に努む。
適当の時期に至れば,米英等に対し,南陽方面における錫及びゴムの衡平なる供給を保障する用意ある旨を闡明(せんめい)す。
〈備 考〉
独系米人を利用し米国の与論を分裂せしめんとする方法は一応考慮し得るも,前回大戦の例に徴するも非実際的にして効果なし。
対中南米工作には多くを期待し得ず。
フィリピン,ビルマ及びインドネシアの独立並びにインドの独立運動に対する刺激助長
この外務省による米英蘭蒋戦争終末促進要領について,戦後一般的日本人が違和を感じるのは,開戦前の,しかも公表されることがない「国家機密」の文書(本音が言える。)に,戦争終結促進という目的のためではあるが,アジア諸国の独立をその方針として具体的に明記していることかもしれない(本文3項ないし6項)。
具体的には,アメリカの植民地フィリピン,オランダの植民地インドネシア及びイギリスの植民地ビルマを独立させ,かつビルマの独立をもってイギリスの代表的植民地インドの独立運動を刺激助長する,というものである。
ここに「大東亜共栄圏」のような壮大なプロパガンダ臭はなく,後に触れるが,実は戦中と戦後にかけてこの方針(+α)が実現されている。
これに対し,仏印すなわちフランス領インドシナ(現在のベトナム,ラオス及びカンボジ)については「現状を維持す」とある。これは,前述のように当時の日本とフランスは準同盟国だったからである。この点,他のアジア諸国同様,フランス植民地支配からの解放を日本に期待したベトナム人の失望を買ったのは事実。
なお,タイは当時も独立国である。ただ,開戦直前,東西の隣国(インドとビルマ)を植民地とするイギリスに味方するか,日本に味方するかは旗幟鮮明ではなかった。タイは,開戦直後の昭和16(1941)年12月21日,日本との間で日泰攻守同盟条約を締結,翌17年1月25日,イギリス及びアメリカに対し宣戦布告している。
【11月13日 大本営政府連絡会議の腹案】
対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案の決定
「要領」を定めた外務省に対し,昭和16(1941)年11月13日,大本営政府連絡会議は「腹案」という形式で対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案を決定している。
対外戦略や占領後の方針を定める外務省「要領」と違い,大本営政府連絡会議の「腹案」は,具体的な戦争計画を定めている。
以下,その全文をみてみる。
イギリスの屈服が方針の第一
〈方 針〉
速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り,蒋介石政権の屈服を促進し,独伊と提携して,まずイギリスの屈服を図り,アメリカの継戦意志を喪失せしむるに勉む。
極力戦争対手の拡大を防止し,第三国の利導に勉む。
〈要 領〉
帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及び南西太平洋における英米蘭の根拠を覆滅し,戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資源地域ならびに主要交通線を確保して長期自給自足の態勢を整う。
凡有(あらゆる)手段を盡(つく)して適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む。日独伊三国協力して先ずイギリスの屈服を図る。
(1)帝国は左の諸方策を執る。
イ.オーストラリア・インドに対し政略及び通商破壊等の手段によりイギリス本国との連鎖を遮断し,その離反を策す。
ロ.ビルマの独立を促進し,その成果を利導してインドの独立を刺激す。
(2)独伊をして左の諸方策を執らしむるに勉む。
イ.近東,北阿(北アフリカ),スエズ作戦を実施すると共にインドに対し施策を行う
ロ.対英封鎖を強化す。
ハ.情勢これを許すに至らばイギリス本土上陸作戦を実施す。
(3)三国は協力して左の諸方策を執る。
イ.インド洋を通ずる三国間の連絡提携に勉む。
ロ.海上作戦を強化す。
ハ.占領地資源の対英流出を禁絶す。日独伊は協力し対英措置と並行してアメリカの戦意を喪失せしむるに勉む。
(1)帝国は左の諸方策を執る。
イ.比島(フィリピン)の取扱は差し当たり,現政権を存続せしむることとし,戦争終末促進に資する如く考慮す。
ロ.対米通商破壊戦を徹底す。
ハ.支那及び南洋資源の対米流出を禁絶す。
ニ.対米宣伝謀略を強化す。
その重点を,米海軍主力の極東への誘致ならびに米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き,米国世論の厭戦誘発に導く。
ホ.アメリカ・オーストラリア関係の離隔を図る。
(2)独伊をして左の諸方策を執らしむるに勉む。
イ.大西洋及びインド洋方面における対米海上攻撃を強化す。
ロ 中南米に対する軍事,経済,政治的攻撃を強化す。支那に対しては対米英蘭戦争,特にその作戦の成果を活用して援蒋の禁絶,抗戦力の減殺を図り,在支那租界の把握,南洋華僑の利導,作戦の強化等政戦略の手段を積極化してもって重慶政権の屈服を促進す。
帝国は南方に対する作戦間,極力対ソ連戦争の惹起を防止するに勉む。
独ソ両国の意向によりては両国を講和せしめ,ソ連を枢軸側に引き入れ,他方日ソ関係を調整しつつ場合によりては,ソ連のインド・イラン方面進出を助長することを考慮す。仏印(フランス領インドシナ/ベトナム・ラオス・カンボジア)に対しては現施策を続行し。
泰(タイ)に対しては対英失地回復をもって帝国の施策に協調する如く誘導す。常時戦局の推移,国際情勢,敵国民心の動向等に対し厳密なる監視考察を加えつつ戦争終結のため左記の如き機会を捕捉するに勉む。
イ.南方に対する作戦の主要段階
ロ.支那に対する作戦の主要段落,特に蒋介石政権の屈服
ハ.欧州選挙区の情勢変化の好機,特にイギリス本土の没落,独ソ戦の終末,対インド施策の成功
これがため速やかに南米諸国,瑞典(スェーデン),葡国(ポルトガル),法王庁等に対する外交ならびに宣伝の施策を強化す。
日独伊三国は,単独不講和を取極むると共にイギリスの屈伏に際し,これと直に講和することなく,イギリスをしてアメリカを誘導せしむる如く施策するに勉む。
対米和平促進の方策として南洋方面における錫,ゴムの供給及び比島(フィリピン)の取り扱いに関し考慮す。
腹案にはなかった真珠湾攻撃
一見すれば分かるように「腹案」は,作戦の主眼を,いかにイギリスを屈服させるかに置いている。そのために,同盟国ドイツ及びイタリアに対し,スエズ運河及びインド洋などの封鎖を求めるなどしている。
他方,アメリカ領ハワイ真珠湾に対する攻撃は,この腹案にはない。それどころか,アメリカに関しては積極的な作戦計画すらない。
むしろ,腹案は「凡有(あらゆる)手段を盡(つく)して,適時,米海軍主力を誘致し,これを撃滅するに勉む。」あるいは「対米宣伝謀略を強化す。その重点を,米海軍主力の極東への誘致ならびに米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き,米国世論の厭戦誘発に導く。」として,米艦隊の極東への「誘致」を作戦目標としている。
ハワイにあるアメリカ太平洋艦隊を,奇襲するどころか,日本”極東”に誘い出し,これを撃滅,結果,アメリカ世論を厭戦気分に導くというもの。アメリカ世論は,アメリカ領ではあるがフィリピンやグアム程度であれば諦め,それ以上の日本との戦争拡大は望まないだろう…ということのようだ。
この”腹案”であれば,少なくとも敗けることはなさそうな気もしないでもない。むしろアメリカ人気質をよく理解しているような感すらする。
逆に”腹案”にはない真珠湾攻撃の実行が(ルーズベルト大統領の狙いかもしれないが),アメリカの本格参戦とその後の太平洋での多くの敗戦・悲劇を招き,結果,兵力をアジアに割けず”腹案”が主眼としたイギリスの屈服による戦争終結が実現できなかった,と考えられなくもない。
【11月20日 南方占領地行政実施要領】
開戦前に決定された「軍政」の内容
大本営政府連絡会議は,戦闘計画に関する「腹案」に続き,昭和16(1941)年11月20日,南方占領地行政実施要領を決定している。
開戦前すでに,開戦後に占領するであろう英米蘭のアジア植民地に対し「軍政」を布くこと,さらにはその具体的な内容を規定している。
その主旨は,以下の二文に表れているように思う。アジア諸国の独立については,外務省に比し,大本営(軍部)は慎重であったとも言える。
国防資源取得と占領軍の現地自活のため,民生に及ぼさざるるを得ざる重圧は之を忍ばしめ,宣撫(せんぶ)上の要求は,右目的に反せざる限度に止むるものとす。
原住土民に対しては,皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し,その独立運動は過早に誘発せしむることを避るものとす。
南方占領地行政実施要領の内容(全文)
第一 方 針
占領地に対しては差し当たり軍政を実施し,治安の回復,重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す。
占領地領域の最終的帰属ならびに将来に対する処理に関しては,別に之を定るものとす。
第二 要 領
軍政実施にあたりては,極力残存統治機構を利用するものとし,従来の組織及び民族的慣行を尊重す。
作戦に支障なき限り占領軍は,重要国防資源の●●●開発を促進すべき措置を講ずるものとす。
占領地においては開発または取得したる重要国防資源は,これを中央の物動計画に織り込むものとし,作戦軍の現地自活に必要なるものは右配分計画に基づきこれを現地に充当するを原則とす。物資の対日輸送は,陸海軍において極力これを援助し且つ陸海軍は徴傭船を全幅活用するに努む。
鉄道,船舶,港湾,航空,通信及び郵政は占領軍においてこれを管理す。
占領軍は貿易及び為替管理を施行,特に石油,ゴム,錫,タングステン,キナ等の特殊重要資源の対敵流出を防止す。
通貨は,勉めて従来の現地通貨を活用流通せしむるを原則とし,已むを得ざる場合にありては外貨標示軍票を使用す。
国防資源取得と占領軍の現地自活のため,民生に及ぼさざるるを得ざる重圧は之を忍ばしめ,宣撫(せんぶ)上の要求は,右目的に反せざる限度に止むるものとす。
米,英,蘭国人に対する取扱いは,軍政実施に協力せしむる如く指導するも,之に応ぜざるものは退去その他適宜の措置を講ず。
枢軸国人の現存権益は之を尊重するも爾後の拡張は勉めて制限す。
華僑に対しては蒋介石政権より離反し,我が施策に協力同調せしむるものとす。
原住土民に対しては,皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し,その独立運動は過早に誘発せしむることを避るものとす。作戦開始後,新たに進出すべき邦人は事前にその素質を厳選するも,嘗(かつ)てこれらの地方に在住せし帰朝者の再渡航に関しては優先的に考慮す。
軍政施策に関連し措置すべき事項左の如し。
イ.現地軍政に関する重要事項は,大本営政府連絡会議の議を経て之を決定す。
中央の決定事項は之を陸海軍よりそれぞれ現地軍に指示するものとす。
ロ.資源の取得及び開発に関する企画及び統制は差当り企画院を中心とする中央の機関において之を行うものとす。
右決定事項の実行はイ項によるものとす。
ハ.仏印及びタイに対しては既定方針により施策し軍政を施行せず。状況激変せる場合の処置は別に定む。
備 考
一 占領地に対する帝国施策の進捗に伴い,軍政運営機構は逐次政府の措置すべき新機構に統合調整又は移管せらるるものとす。
【11月27日 ハル・ノート】
ハル・ノートの手交
アメリカのコーデル・ハル国務長官は,昭和16(1941)年11月26日午後5時頃(現地時間)のワシントンにて,野村吉三郎及び来栖三郎両駐米大使に対し,日本の最終案である「乙案」を拒否する旨を伝え,同時にいわゆる”ハル・ノート”を手交した。
ハル・ノートは10項目からなる。全内容については,後掲の「日米交渉に関する外務大臣説明」にある。
Ten Points(10項目)
日米両国政府は,英帝国,蘭(オランダ),支(中国),蘇(ソ連),泰(タイ)と共に多辺的不可侵条約の締結に努む。
日米両国政府は,日,米,英,支,蘭,泰国政府との間に仏印(フランス領インドシナ)の領土主権を尊重し,仏印の領土主権が脅威さるる場合,必要なる措置に関し,即時協議すべき協定の締結に努む。
右協定締結国は,仏印に於ける貿易及び経済関係に於いて特恵待遇を排除し,平等の原則確保に努む。日本政府は,支那及び仏印より一切の軍隊(陸,海,空及び警察)を撤収すべし。
両国政府は,重慶政府(蒋介石政権)を除く如何なる政権をも軍事的,政治的,経済的に支持せず。
両国政府は,支那に於ける治外法権(租界及び団匪議定書に基づく権利を含む)を放棄し,他国にも同様の措置を慫慂(しょうよう)すべし。
両国政府は,互恵的最恵国待遇及び通商障壁低減の主義に基づく通商条約締結を商議すべし(生糸は自由品目に据置く)。
両国政府は,相互に資産凍結令を廃止す。
円ドル為替安定に付き協定し両国それぞれ半額宛資金を供給す。
両国政府は,第三国と締結し居る如何なる協定も,本協定の根本目的すなわち太平洋全地域の平和確保に矛盾するが如く解釈せられざることをに付き同意す。
以上諸原則を他国にも慫慂すること
フランス領インドシナ全域からの即時撤退
日米交渉でメインの争点だった仏印(フランス領インドシナ)について,ハル・ノートでは,日支事変の終結を待たず,南部に限らず北部からも撤退することが要求されている。しかも,軍隊に限らず警察権力もその対象とされている(3項)。
”広義のChina”からの即時撤退
それまで少なくとも中国での平和実現まで駐兵することを前提に交渉が重ねられたが,アメリカは,この段階に至り,警察権力を含む全日本軍隊の「支那(China)」からの即時撤退を要求するに至った(3項)。
しかも,ハル・ノートに記載された「支那(英語原文はChina)」には,満洲も含まれると日本は捉えた。つまり,万里の長城以南の”狭義の支那(China)”からだけでなく,満洲を含めた”広義の支那(China)”からの全軍・警察の撤退こそが,日米和平,つまり石油禁輸解除などの条件とされたのである(3項)。
重慶政府のみが”広義のChina”の政権
加えて,アメリカは自らが支援する蒋介石の重慶政府のみを承認すべしとしている(4項)。
これは,日本が承認する南京政府(汪兆銘政権)との国交断絶を強要するものである。
さらに,Chinaを”広義”に解釈するならば,日本の後ろ盾により成立した満洲国とも国交断絶し,満洲の施政権者として蒋介石のみを承認せよと求めるものでもあった。
治外法権撤廃及び租界還付
これらに対し,治外法権の撤廃等(5項)については,アメリカに言われるまでもなかった。
日本は,昭和15(1940)年11月30日,中華民国南京政府(汪兆銘政権)との間で締結した日本国中華民国間基本関係に関する条約(日華基本条約)の中で,英米に先立ち,次のように治外法権の撤廃と租界の還付を約していたのである。
なお,ハル・ノート第5項にある「団匪議定書」とは,明治33(1900)年の義和団事件に関する議定書であり,日本,アメリカ及びイギリスら合計11カ国は,北京や天津などに駐兵する権利などを得ていた。
日本は,昭和18(1943)年1月9日,中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)との間で租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定を締結,この協定によって英米に先んじて,実際に「団匪議定書に基づく権利」を放棄し,治外法権の撤廃と租界の返還を実現している。
【12月1日 第八回御前会議】
議題は「対英米蘭開戦の件」
昭和16(1941)年12月1日(月)午後2時,宮中東一の間にて,令和の現在にまで至る日本の運命を決めた御前会議が開かれた。
日本が交渉期限と定めていた同年11月30日の直前の同月27日午後5時にアメリから提示された和平案がハル・ノートであった。日本は,これを受け入れることはできなかった。結局,11月30日を経過するも日米間では妥結に至らず。
明けた12月1日の午後2時,あらためて御前会議が開かれた。
議題は下記の「対米英蘭開戦の件」である。結論としては,全員異議なくこれを承認,可決され,これによりアメリカ,イギリス及びオランダとの開戦が決まった。
内閣総理大臣説明
この御前会議は,議長を務めた内閣総理大臣東條英機の説明で始まる。内容は次のようなもの(全文)。太字部分などに主旨が表れているが,当時の日本が開戦を決意した理由について,端的に理解することができる。
日米交渉に関する外務大臣説明
続いて東郷茂徳外務大臣は,これまでの日米交渉を総括して説明している。
全文はファイルで後掲するが,以下一部引用を引用する。
質問応答:「支那」に満洲は含まれるか?
御前会議の参列者の一人である枢密院議長の原嘉道は,弁護士にして司法大臣をも務めた法曹界の重鎮。
ハル・ノートに記された「支那(英語では China)」との文言について,法律家らしい質問をしている。
東郷外相の回答は,大使が文言の確認は行っていない旨を認めたが,「支那」に満洲国が含まれるか否かについての回答は必ずしも明確ではない。しかし,結論としては「含まれる」との回答している。
そのため,日本は,アメリカが満洲国からの全軍撤退を要求していると解釈し,その前提で開戦の意思決定を行ったと言える。
原枢密院議長の所見
日本としては,南部仏印進駐後の約半年に及ぶアメリカとの交渉で譲歩に譲歩を重ねたが,アメリカはハルノートをもって,これをゼロに戻す回答をした。現実の交渉の場では,このような回答は,内容の是非以前の問題として,手続的に「交渉拒絶(決裂)」を意味する。
当時,外交交渉が決裂した場合,その次なる外交手段は戦争であり,これは国際法上も合法な手段。
避戦派で知られる原枢密院議長も,以下のような所見を述べ,結論として開戦に賛成している(全文は,上掲「議事録(質問応答及び意見陳述等)」に記述されている。)。
ここに「日清,日露の成果」や「明治天皇御事蹟」というのは,満洲事変の前後に唱えられた「満蒙は日本の生命線」という言葉に集約される。
アメリカの圧力に屈し,これらを「一擲(いってき)」するとなると,その獲得のために血を流した国民の納得は,到底得られない。朝日新聞や毎日新聞などマスコミに煽られた世論の憤激は,三国干渉時の比ではなかったはず。
このあたりの当時の感覚を戦後の今に理解することは,戦後,何よりの難事にさせられている。
【ヒノデ ハ ヤマガタ/新高山登レ 一二〇八】
12月2日14時 電文
昭和16(1941)年12月1日第八回御前会議で開戦が決定された。開戦日については,同年11月5日第七回御前会議で採択された帝国国策遂行要綱では「十二月初頭」とされるに止まっていた。
陸海軍調整の上,同年12月2日,開戦日が「8日」と決定された。
陸軍に関しては,昭和16(1941)年12月2日午後2時,陸軍参謀総長(陸軍大将杉山元)がマレー上陸作戦軍(第二十五軍)を含む南方軍総司令官(陸軍大将寺内寿一)に対し,
「ヒノデ」ハ「ヤマガタ」トス。
と打電,軍事行動開始日が「8日」と決まった旨を伝達した。
これに対し,同月2日午後5時30分,海軍が既にハワイに向かっている空母機動部隊などに発した電文が,有名な「新高山登レ一二〇八」。
12月8日1時30分 開戦
昭和16(1941)年12月8日午前1時30分(日本時間),マレー半島への上陸作戦で,日本が同月12日以降,そう呼ぶことになった大東亜戦争が始まった。
その2時間後の同日午前3時30分(日本時間),アメリカ領ハワイ真珠湾に対する空母機動部隊の攻撃が開始され,アメリカが太平洋戦争と呼ぶ戦争が始まった。
【独立か傀儡か】
「独立を認める・独立をせしめる」
昭和16(1941)年11月12日に外務省が取りまとめた対米英蘭蒋戦争終末促進要領には,前述のように,イギリス,アメリカ,オランダ及びフランスの植民地とされていた東アジア諸国について,戦争の終末を促進するために,次のような方針を掲げていた。
以下,この方針に示されたフィリピン,インドネシア,ビルマ,インド及びベトナムの,昭和16(1941)年12月8日以降をみてみたい。
「傀儡」と一蹴されるが,実は意外にも実現しているのである。
フィリピン
昭和18(1943)年6月26日,大本営政府連絡会議は,比島独立指導要綱を提案している。
同要綱のうち「二、指導要領」の6項は,「独立の時期は概ね昭和18年10月と予定し,その準備官僚の時期は9月下旬を目処とす。」としている。
実際,フィリピンは,昭和18(1943)年10月14日,植民地支配していたアメリカから独立し,フィリピン共和国が成立している。フィリピンは,国家の形すらない1565年にスペインの植民地となっており,フィリピン史上初の独立国家の成立でもあった。
インドネシア
インドネシアは,もともと日本が求めた石油やゴムなどの天然資源の産地であるため,その独立は後れた感は否めない。しかも,「8月15日」が絡み,駆け込み的に実施された。
昭和17(1942)年3月9日,インドネシアを植民地としていたオランダが日本に完全に降伏,以後,日本による占領下に置かれる。
昭和19(1944)年9月7日,第八十五回帝国議会において,時の小磯國昭首相は,次のとおり将来のインドネシアの独立を認める声明を発表している。
昭和20(1945)年7月17日,最高戦争指導会議は,東印度独立措置に関する件を決定し,インドネシアの独立を正式に容認した。
このうち「独立の予定時期」については,昭和20(1945)年7月下旬,同年9月7日と定められた。
同年8月7日,上記決定にもある独立準備委員会がジャワで組織される。委員長をスカルノ,副委員長をハッタ,委員19名の合計21名の全てインドネシア人からなる委員会である。
しかし,日本において,同年8月6日に広島,同月9日に長崎に相次いで原子爆弾が投下され,同日にはソ連が日本に宣戦布告。
南方軍司令官寺内寿一元帥は,同月12日,前倒しでの独立を認めるに至る。この件について,当時の資料は,次のように記している。
昭和20(1945)年8月15日,日本は前日にポツダム宣言を受諾し,玉音放送がインドネシアでも日本の敗戦を告げた。
その2日後の同年8月17日,スカルノとハッタは,オランダなど連合国が侵攻する前に,インドネシアの独立を宣言している。
下の写真は同国の紙幣の図柄にもなっているインドネシアの初代大統領スカルノによる独立宣言の起草書。
その日付「Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05」の「05」は,西暦(1945)ではなく,皇紀2605年の「05」であることは,両国の関係を知る上で興味深い有名なエピソード。
既に独立に向け起草していたため,独立宣言の翌日(西暦1945年8月18日)には,早くもインドネシア共和国憲法を制定・公布・施行している。この後4回ほど改正されているが,現在のインドネシア憲法に繋がっている。
ちなみに,その憲法前文の文頭には「独立はすべての民族の権利である。したがって,人道主義と公正にもとる植民地主義は,必ず一掃されなければならない。」とある。
その後,ベトナムにおけるフランスと同様に,インドネシアにもオランダが再侵攻,4年以上に及ぶ独立戦争が始まる。この独立戦争においては,これに加わった元日本兵の存在や,寺内司令官などがオランダによる再植民地化を想定して行った「日本軍兵器資材の供与」がインドネシアの勝利に大きく貢献したと,インドネシアでは評されている。
ビルマ(ミャンマー)
日本は,昭和17(1942)年5月下旬までに,イギリスが植民地としていたビルマ全域の占領を完了する。
ビルマは,昭和18(1943)8月1日,イギリスから独立を宣言,蘭貢(ラングーン)にて,日本と日本国ビルマ国間同盟条約を締結している。内容は,以下のとおりで,ビルマ国の国家承認が主なものである。
この条約にビルマ国内閣総理大臣として署名しているのは,バー・モウ。日本軍のもと軍事訓練を受けたアウンサン将軍(スーチー氏の父)は,国防大臣に就いている。
バー・モウ及びアウンサン(オウサン)らは,独立・同盟に先立つ同年3月に日本に招かれ,勲章を受けている。当時,ビルマ防衛軍司令官にあったアウンサン少将は,勲三等旭日中綬章を受けている。
インド
インドについては,開戦前の日本も占領・独立までは考えておらず,イギリスを困らせるために,その大植民地であったインドの独立運動を刺激し,助長しようとするもの。
インドの独立記念日は8月15日。
ただし,1945(昭和20)年ではなく,1947年。
インドの独立運動家で,本国ではガンジーと同等かそれ以上に評価されているチャンドラ・ボース。
ボースは,ガンジーの「非暴力主義」に限界を感じ,ガンジーと袂を分かつ。イギリスからの独立への協力を求めにナチス・ドイツに渡るもヒトラーの協力を得られず,次に日本の協力を得るべく,ドイツ潜水艦Uボートからマダガスカル島辺りで日本の伊号潜水艦に乗り継ぎ,インドネシアから飛行機で,昭和18(1943)年5月16日,東京に到着している。
ボースは,日本の要人に対し,インド独立への支援を求めた。
他方,ボース自身は,シンガポールやマレーシアなどで日本軍の捕虜となっていた旧イギリス兵インド人を中心に,ボースを最高司令官としたインド国民軍約4万5000人を組織した。
こうして,ボース率いるインド国民軍は,昭和19(1944)年3月8日から同年7月3日までの間,悲願のインド独立を達成すべく,9万人の日本軍と共作し,ビルマからイギリス植民地インド東部の都市インパールの攻略を目指した。
これが日本で最も評判が悪いインパール作戦で,承知のように作戦自体は大失敗に終わった。
昭和20(1945)年8月15日,日本敗戦を知ったボースは,インド独立の夢を次に託すべく,ベトナム・サイゴンから台湾経由で日本(その後,大連を経てソ連へ)に向かう途中,同月18日,台湾での飛行機事故で亡くなった。
しかし,独立したビルマから攻め入ったインパール作戦は,それ自体は大失敗に終わったが,戦後のインド独立への「刺激助長」になった。
ボースが率いたインド国民軍兵は,戦後1945(昭和20)年11月,イギリス官憲により「英国王への反逆罪」で死刑に処せられた。この事件が契機となってインド各地で大暴動が勃発,「非暴力」は狡猾に“いなし“ていたイギリスも暴動鎮圧を断念して遂に統治権を放棄,ネルーは1947年8月15日,イギリスからの独立を宣言するに至った。
こうして,一番遅く見ても1858年から続いたイギリスのインドに対する植民地支配は約90年で幕を閉じた。
ベトナム(ラオス及びカンボジア)
フランス領インドシナ(ベトナム,ラオス及びカンボジア)は,これまで述べたようなイギリス,オランダ及びアメリカ領の東アジアとは,事情が異なる。
英米との開戦前の昭和15(19401)9月22日以降,日本軍は,既にドイツに敗北していたフランスとの協定に基づいてインドシナへ進駐している。その進駐はインドシナでのフランスの主権を維持・尊重することが前提で,日仏はいわば準同盟国にあった。
昭和16(1941)年11月12日付け外務省策定の対米英蘭蒋戦争終末促進要領に「仏印は現状を維持す」とあること,同月13日付け対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案に「仏印に対しては現施策を続行」とあるのは,そのためである。
この要領を作成した外務省は,戦中となった昭和17(1942)年,文部省と共管でベトナムのサイゴン(現ホーチミン市)に公費の旧高専校「南洋学院」を設立している。その建学の趣旨は「東洋民族の共存・共栄,邦人発展のため,その第一線に立つ指導的な人材を養成すること」を目指すということにある。これに多くの日本(台湾を含む。)や満洲の若者が共鳴し,サイゴンに渡った。
ベトナムに限らない,南洋での共存・共栄のための人材を現地で育成するというのは,日本政府の本気だったのではないかとも思う。
ところが,昭和19(1944)8月25日,パリがドイツ占領から解放されるなど,情勢がフランスに転じる。徐々にフランスが非協力に変化,やがては英米軍がベトナムに上陸した際にこれに駐フランス軍が呼応して日本軍を攻撃する可能性が出てきた。
この危険を未然に取り除くべく,昭和20(1945)年3月9日午後10時(現地時間),これまで形だけでも準同盟関係にあったフランス軍を一気に打倒しようと実施されたのが明号作戦。作戦は,ほぼ1日で完了する。
翌日の昭和20(1945)3月11日,日本軍の後ろ盾を得たベトナム阮王朝のバオ・ダイ帝は,フランスからの独立を宣言し,ベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)を樹立している。
同様に,カンボジアも同月13日,日本でも知られたシハヌーク王がフランスからの独立を宣言する。ラオスのシーサワーンウォンも同年4月8日にフランスからの独立を宣言している。
ベトナムなど仏印と日本の件については,下掲の各拙稿をご参照。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。