戦後司法に流れた会津藩の命脈
”江戸”の終幕
明治2年5月18日,西暦の1869年6月27日は,五稜郭の開城・武装解除によって函館戦争が終結した日。
同じその日,前年に江戸から改称された東京,今の広尾の天現実交差点近くにあった飯野藩保科家下屋敷では,会津藩さらには徳川家に対する薩長土の恨みを一身に引き受け,会津藩家老の萱野権兵衛が切腹している。
名実ともに”江戸”が終幕した日でもある。
いわき市にある萱野権兵衛御母堂の墓
萱野権兵衛の墓は,港区白金の興禅寺にあるが,その母親のお墓は,福島県いわき市の(旧)磐城女子高等学校に隣接する長源寺にある。
これは,萱野権兵衛が亡くなった後,母親の面倒をみていた実弟の三淵隆衡が明治23年から明治27年まで磐城郡の郡長を務めており,その在任中の明治25年に母親が亡くなったことがためらしい。
長源寺の縁起
長源寺は,徳川譜代大名の鳥居家の菩提寺。慶長5(1600)年,関ヶ原の前哨戦,東上する西軍の矢面となり,伏見城にて討死にしながらも足止めに成功した鳥居元忠。その功が評価され,息子の鳥居忠政がここ磐城に10万石を拝領する(磐城平藩の藩祖)。
「長源寺の由来」には,「(徳川)将軍家は元忠の伏見城の忠死の功を賞し,菩提のため一寺を磐城胡摩沢に建てて長源寺と号し,百石の黒印を賜った。」とある。
さらに「以後,明治まで歴代将軍御朱印百石」とある。驚くべきことに,寺の維持費の100石は,関ヶ原直後から明治まで徳川家がもった。
数年振り,たまたま令和5年度NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送中に長源寺を訪れたら,「伏見城を 死守せし功 しのばれて 墳墓に立てば 涙 湧き出す」という生々しい描写の歌が掲げられていた。
これは,大阪の陣後の元和8年(1622年),最上氏の改易を受け,山形に加増転封となった鳥居忠政の菩提寺であり(磐城)長源寺の末寺にあたる山形の長源寺の総代から,本寺長源寺に読み伝えらた歌だそうだ。
初代最高裁長官 三淵忠彦
ところで,三淵隆衡の長男,つまり萱野権兵衛の甥にあたる三淵忠彦は,昭和22年8月4日,”戦後”の日本国憲法によって設置された最高裁判所の初代長官に憲法第6条2項の規定により任ぜられた人である。
明治13年生れなので,幼少期を父や祖母と磐城で過ごしたかもしれない。
三淵忠彦の最高裁長官任命には,幕末の会津藩主松平容保の実子で,"戦後"の参議院の初代議長に選出されていた松平恒雄による後押しがあったと言われる。
何の因果か"戦後"の日本「三権」のうち"1.5権"には,会津藩の命脈が流れ着いていた。
女性初の弁護士・裁判官・裁判所長 三淵嘉子
忠彦の息子三淵乾太郎も裁判官を務めている。
その妻の三淵嘉子は,前夫が戦没,昭和31(1956)年に乾太郎と再婚し,三淵姓となったが,それに至る前,昭和13(1938)年に日本初の女性弁護士となり,”戦後”の昭和25(1949)年には,日本初の女性裁判官に任命されている。昭和47(1972)年,新潟家庭裁判所で初の女性家庭裁判所長となり,浦和家裁,横浜家裁の各所長を務めるなどしている。
朝ドラヒロインのモデル
令和6年度前期NHK朝ドラ「虎に翼」,伊藤沙莉さんが演じるヒロインのモデルが,この三淵嘉子。”ジェンダー平等”が虚しく思える,誰も否定のしようがないその道の先駆者。